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コラム「浦和の都築龍太」
昨年の6月20日(日)、都築龍太がチームメートに挨拶して期限付き移籍先の湘南へ向かうと聞き、急いで彼のプレー写真を何枚か焼き、大原サッカー場へ向かった。
大原に到着するとすでにグラウンドには誰もいなかったが、ちょうど帰るところの都築が出てきて、写真を渡すことができた。別れ際に彼が言った。
「また、帰って来れたら」
2009年9月13日のJリーグ第25節モンテディオ山形戦を最後にケガのため試合出場から遠ざかっていた都築は、昨年の途中からはベンチに入る機会もなくなっていた。そんな中での期限付き移籍。本人が置かれている環境を考えれば、すでにレッズから気持ちが離れてしまっているのではないかと深読みしていたが、この「また、帰って来れたら」という言葉を聞いて、ああ都築はレッズに戻って来るつもりがあるのだ、とわかり少しホッとした。と同時に、写真を渡すなんてまるでこっちが永の別れの覚悟でいるかのようじゃないか、と少し反省した。本人はどう思っただろうか。
都築は2003シーズンから浦和レッズの選手になった。その前々年はガンバ大阪でリーグ戦30試合中29試合に出場するレギュラーGKだったが、翌年途中から出場機会が減り、移籍を決意した。
都築が加入して以降のレッズは、その年のナビスコカップを始め、数々のタイトルを獲得してきたが、そこには彼の力が欠かせなかったことは言うまでもない。とりわけ2006年天皇杯決勝では、終始劣勢の展開で古巣のガンバ大阪から21本のシュートを浴びたがゴールを割らせず、1-0でJリーグ勢としては初の天皇杯連覇を果たしたのだった。この年はリーグ開幕戦から先発を続けていたが、第10節でケガのため途中交代。その後は1試合を除いてリザーブに回っていた。そのためかリーグ優勝の瞬間も心の底からは喜べないでいた。そのモヤモヤを晴らすかのような天皇杯での活躍だった。
「自分が中心でゴールを守ってリーグ優勝したい」
それが都築の目標だった。2007年、アジアを制覇し、リーグ戦との2冠を目の前にしながら、果たせなかったことは今でも心残りに違いない。
都築のプレーでまず頭に浮かぶのは、日本で一、二を争うキックの正確さだろう。特に、パントキックをライナーで右サイド高い位置の山田暢久に送り、山田が頭で前方のスペースに落としたところを走り込んだ田中達也が拾いゴールへ向かう、というカウンター攻撃はレッズの定番だった。だがそれを言うと本人は「自分はGK。キックばかりほめられても…」と、さほどうれしそうな顔をしなかった。
また相手の危険なプレーに対して、激昂する場面もよく見られた。自分だけではなく仲間に向けられたものにも激しく抗議し、それが理由で警告をもらうことも少なくなかった。また失点につながりそうな味方のプレーがあると、試合、練習を問わず大声で叱責した。そのため、“怖い”イメージがあるが、多くの後輩から慕われていたことも事実だ。
他人だけでなく自分にも厳しかった。レッズでは3回、PK戦の機会があり、そのいずれも勝っているが、相手のシュートを止めてガッツポーズすることもなく、勝ちが決まって仲間に駆け寄ることもなかった。「自分が守ったPK戦では、味方が全部決めてくれた。自分の力で勝ったわけではない」とあくまで謙虚に振り返る。3試合ともPK戦に至るまでに失点があったから、その悔しさの方が強かったのだろう。
現役引退は惜しい。レッズとの契約がなくなっても、都築のプレーを見たい気持ちはある。だが、こうも思う。都築龍太という、強烈な個性と積極的なプレーが特徴のGKを、最も活かすことができたのは浦和レッズだったのではないか、と。
都築のプレーによって浦和レッズが多くのタイトルを獲得したことは間違いない。それと同時に、他のクラブではなく浦和レッズのGKであったからこそ、都築龍太があれだけ輝くことができたのだと思う。
「レッズ所属の選手として引退できるということを誇りに思う」という本人の言葉は、たまらなくうれしい。そっくりそのまま返してもよいだろうか。
「都築龍太が現役最後に所属していたクラブが浦和レッズであったことを、私たちは誇りに思う」と。
8年間ありがとう。そして最後に帰ってきてくれてありがとう。
【浦和レッズオフィシャルメディア(URD:OM)】
大原に到着するとすでにグラウンドには誰もいなかったが、ちょうど帰るところの都築が出てきて、写真を渡すことができた。別れ際に彼が言った。
「また、帰って来れたら」
2009年9月13日のJリーグ第25節モンテディオ山形戦を最後にケガのため試合出場から遠ざかっていた都築は、昨年の途中からはベンチに入る機会もなくなっていた。そんな中での期限付き移籍。本人が置かれている環境を考えれば、すでにレッズから気持ちが離れてしまっているのではないかと深読みしていたが、この「また、帰って来れたら」という言葉を聞いて、ああ都築はレッズに戻って来るつもりがあるのだ、とわかり少しホッとした。と同時に、写真を渡すなんてまるでこっちが永の別れの覚悟でいるかのようじゃないか、と少し反省した。本人はどう思っただろうか。
都築は2003シーズンから浦和レッズの選手になった。その前々年はガンバ大阪でリーグ戦30試合中29試合に出場するレギュラーGKだったが、翌年途中から出場機会が減り、移籍を決意した。
都築が加入して以降のレッズは、その年のナビスコカップを始め、数々のタイトルを獲得してきたが、そこには彼の力が欠かせなかったことは言うまでもない。とりわけ2006年天皇杯決勝では、終始劣勢の展開で古巣のガンバ大阪から21本のシュートを浴びたがゴールを割らせず、1-0でJリーグ勢としては初の天皇杯連覇を果たしたのだった。この年はリーグ開幕戦から先発を続けていたが、第10節でケガのため途中交代。その後は1試合を除いてリザーブに回っていた。そのためかリーグ優勝の瞬間も心の底からは喜べないでいた。そのモヤモヤを晴らすかのような天皇杯での活躍だった。
「自分が中心でゴールを守ってリーグ優勝したい」
それが都築の目標だった。2007年、アジアを制覇し、リーグ戦との2冠を目の前にしながら、果たせなかったことは今でも心残りに違いない。
都築のプレーでまず頭に浮かぶのは、日本で一、二を争うキックの正確さだろう。特に、パントキックをライナーで右サイド高い位置の山田暢久に送り、山田が頭で前方のスペースに落としたところを走り込んだ田中達也が拾いゴールへ向かう、というカウンター攻撃はレッズの定番だった。だがそれを言うと本人は「自分はGK。キックばかりほめられても…」と、さほどうれしそうな顔をしなかった。
また相手の危険なプレーに対して、激昂する場面もよく見られた。自分だけではなく仲間に向けられたものにも激しく抗議し、それが理由で警告をもらうことも少なくなかった。また失点につながりそうな味方のプレーがあると、試合、練習を問わず大声で叱責した。そのため、“怖い”イメージがあるが、多くの後輩から慕われていたことも事実だ。
他人だけでなく自分にも厳しかった。レッズでは3回、PK戦の機会があり、そのいずれも勝っているが、相手のシュートを止めてガッツポーズすることもなく、勝ちが決まって仲間に駆け寄ることもなかった。「自分が守ったPK戦では、味方が全部決めてくれた。自分の力で勝ったわけではない」とあくまで謙虚に振り返る。3試合ともPK戦に至るまでに失点があったから、その悔しさの方が強かったのだろう。
現役引退は惜しい。レッズとの契約がなくなっても、都築のプレーを見たい気持ちはある。だが、こうも思う。都築龍太という、強烈な個性と積極的なプレーが特徴のGKを、最も活かすことができたのは浦和レッズだったのではないか、と。
都築のプレーによって浦和レッズが多くのタイトルを獲得したことは間違いない。それと同時に、他のクラブではなく浦和レッズのGKであったからこそ、都築龍太があれだけ輝くことができたのだと思う。
「レッズ所属の選手として引退できるということを誇りに思う」という本人の言葉は、たまらなくうれしい。そっくりそのまま返してもよいだろうか。
「都築龍太が現役最後に所属していたクラブが浦和レッズであったことを、私たちは誇りに思う」と。
8年間ありがとう。そして最後に帰ってきてくれてありがとう。
【浦和レッズオフィシャルメディア(URD:OM)】