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コラム「8年前の今日(11月4日)」
2002年11月4日、浦和レッズは初めてJリーグヤマザキナビスコカップの決勝に舞台に立った。
■ベスト4への壁高かったナビスコカップ
レッズが誕生して11年目。リーグ戦、天皇杯、ヤマザキナビスコカップ、3つの国内公式大会で、それまでレッズは優勝はおろか優勝の一歩手前まで進んだことがなかった。リーグ戦では1995年、1998年にステージ3位となったのが最高。優勝の可能性が終盤まで残ったシーズンもあったが、この試合に勝てば優勝が決まる、ということはなかった。
天皇杯では、1992年、1996年、2001年に準決勝まで進んだがいずれも敗れ、レッズサポーターの多くは年末年始を普通に過ごした。
ナビスコカップでは1992年の予選リーグで10チーム中5位。準決勝に進める4位を惜しくも逃し、その後レギュレーションが毎年のように変わる中でも準々決勝進出が最高で、まるでベスト4の前に壁があるかのようだった。
■予選リーグ1位通過、さらに準決勝へ
2002年、オフト監督が就任してチームを土台から作り直し始めた。その成果が出るには時間がかかった。Jリーグで初白星を挙げたのは第5節。ワールドカップの中断期間直前、4月20日の第7節まで2勝1分4敗と低調な成績だった。
4月27日から始まったナビスコカップ予選リーグでは、日本代表選手の分布が勝敗を分けたのかもしれない。レッズが所属したグループの名古屋グランパス(エイト)からはGKの楢崎正剛がメンバー入りしていたし、鹿島アントラーズは秋田 豊、鈴木隆行、柳沢 敦、中田浩二、小笠原満男、曽ヶ端 準の6人が日本代表だった。
相手チームの戦力ダウンと、シーズンインから3ヵ月たってレッズが新戦術に慣れてきたこと、この2つが要因だったのだろう。ナビスコカップ予選リーグの初戦と第2節で名古屋、鹿島に勝利。広島にはアウェイで引き分けたが、次のホームで勝利。そして第5節、アウェイの鹿島戦にトゥットのハットトリックで勝ち、最終節を残してグループ1位での予選リーグ通過が決まった。
決勝トーナメントは9月4日に始まった。リーグ戦は7月13日に再開して約2ヵ月。第8節から第1ステージ最終節の15節まで、8試合を3勝5敗とあまり芳しい結果ではなかった。それでも8月31日、第2ステージ開幕の広島戦にVゴール勝ちして迎えたナビスコカップ準々決勝。この年はワールドカップにより日程が詰まっており、決勝トーナメントはホーム&アウェイではなく一発勝負で行なわれた。相手は柏レイソル、会場はホーム駒場スタジアムだった。前半0-0と固い試合になったが、後半エメルソンが挙げた先制点を守りきって勝った。ナビスコカップで初めて準々決勝を勝ち進み、ベスト4へ進んだのだった。
■ガンバとの激闘はVゴールで決着
準決勝は1ヵ月後の10月2日。その間にリーグ戦5試合を消化したが、第1ステージ5勝1分9敗という低調ぶりとうって変わって4勝1分けという好成績で進んだ。
第2ステージ開幕から通算して公式戦6勝1分の負けなしで臨んだ準決勝・ガンバ大阪戦。今回はアウェイの万博競技場だった。レッズと同じくJリーグ創設時からのクラブで、それまで無冠だったことでも共通するガンバ大阪はこの年から西野 朗監督が指揮を執り、リーグ戦で第1ステージ4位と強化が成功していた。長身FWマグロンを擁し、宮本恒靖を始め、二川孝広、橋本英郎、大黒将志、新井場 徹らのガンバ大阪ユース出身者が核となって、前年までとは違う波のないチームになっていたのだった。
試合は前半20分、エメルソンが先制。決勝への扉に手をかけたが、34分、38分とマグロンに立て続けに決められ逆転を許す。しかしレッズも後半4分にエメルソンが同点弾を放ち振り出しに戻すと、その後は双方チャンスを作りながら追加点がなく、Vゴール方式の延長へ。延長前半も0-0で、エンドが替わった延長後半2分。ガンバ大阪エリア内でDFのボールへの対応が乱れたところをエメルソンが逃さずシュート。これが決まって107分間の激闘に終止符を打った。
初めてつかんだ決勝への切符。水曜のナイターにも関わらず万博までチームの後押しに駆けつけたレッズサポーターの顔は、応援の汗か涙か、濡れていた。ちなみにガンバ大阪はこの年のリーグ戦第2ステージで2位になっている。
■タイトル奪取へ、11年の思いを凝縮
決勝は11月4日、国立競技場。相手は鹿島アントラーズに決まった。
そのころリーグ戦では、第7節から9節まで連勝し、公式戦通算11試合負けなし(10勝1分)という、チーム記録を塗り替えていたのだが、決勝直前の2試合で鹿島と東京ヴェルディに連敗していた。だが、いずれも僅差での敗戦で(鹿島戦はトゥットが不可解が判定で退場になった後決勝点を決められ、東京V戦は延長Vゴール負け)、レッズサポーターの勢いは弱まらなかった。ナビスコカップ優勝で、リーグ戦にも再び弾みをつけようと、争って決勝のチケットを入手した。
発売開始から10分もしないうちに指定席も含めてチケットは完売。急きょ、駒場スタジアムとさいたまスーパーアリーナでのパブリックビューイング実施が決定した。試合前日の3日には「Reds' Eve」と題するイベントが開催され、ギド・ブッフバルト、ウーベ・バイン、アイトール・ベギリスタイン、ゼリコ・ペトロビッチら、かつてレッズに大きな足跡を残した4人の元外国籍選手が激励に訪れた。
ホームゲームでしか発行しないオフィシャル・マッチデー・プログラム(MDP)が、多くのサポーターからの強い要望により、決勝に向けた特別号として製作された。当日の国立競技場では販売できないため、前日レッドボルテージでの販売となり長蛇の列ができた。
レッズ誕生から11年。初めてのファイナリスト。念願のタイトルに手が届く。さまざまな思いが凝縮され、行動に移されていった。すべては11月4日、その日に向けて。
3日、国立競技場の周りや隣の明治公園にはキックオフを待ちきれないサポーター、入場の順番取りをするサポーターが詰めかけ、夜を明かした。そこへ、前夜祭でニューヒーロー賞に坪井慶介が輝いたという一報がもたらされ、にぎわいに拍車をかけた。
■ファイナリストならではの悔しさ胸に翌年へ
試合当日、スタンドは5万6,054人のナビスコカップ決勝の最多入場者で埋まった。1992年の第1回大会こそ5万6,000人という発表があったが、翌年以降は4万人を一度超えただけで、ほぼ2万人台、3万人台という数字だった決勝が、天皇杯の元日決戦を上回る熱気で盛り上がった。レッズサポーターは選手入場時にスタンドに星型を描き、モチベーションを高めた。
しかし代表選手がそろっている鹿島は強かった。また、それまで8つの国内タイトルを獲得している実績がプレーの自信となって表れていた。レッズの先発メンバーで優勝を経験しているのは井原正巳(横浜マリノス時代)だけで、大舞台を意識してか、それまでの勢いが見られず動きが硬かった。
後半14分、鹿島・小笠原がやや遠目から放ったシュートが井原の背中に当たり、大きな弧を描いてGK山岸の手を越えてゴールネットへ。シュート自体は枠を外れていたと思われるだけに悔まれる失点だったが、1点は1点。先制した鹿島はさらに慣れた試合運びでレッズの反撃をいなし、通算9度目のタイトルを手にしたのだった。
勝利を信じていたレッズサポーターは静まり返り、準優勝の表彰を受ける選手たちは無表情で、その目は赤くなっていた。
だが、それはファイナリストでなければ味わえない悔しさだった。決勝という最後のステージに登り詰めた者だからこそ、優勝の栄冠か、相手の優勝を目の前で見る屈辱か、どちらかを持ち帰ることになる。レッズが初めてファイナリストになった2002年は後者だった。だが、この11月4日が、翌年の初戴冠を始めとする躍進の原動力の一つだったことは間違いないだろう。
【浦和レッズオフィシャルメディア(URD:OM)】
■ベスト4への壁高かったナビスコカップ
レッズが誕生して11年目。リーグ戦、天皇杯、ヤマザキナビスコカップ、3つの国内公式大会で、それまでレッズは優勝はおろか優勝の一歩手前まで進んだことがなかった。リーグ戦では1995年、1998年にステージ3位となったのが最高。優勝の可能性が終盤まで残ったシーズンもあったが、この試合に勝てば優勝が決まる、ということはなかった。
天皇杯では、1992年、1996年、2001年に準決勝まで進んだがいずれも敗れ、レッズサポーターの多くは年末年始を普通に過ごした。
ナビスコカップでは1992年の予選リーグで10チーム中5位。準決勝に進める4位を惜しくも逃し、その後レギュレーションが毎年のように変わる中でも準々決勝進出が最高で、まるでベスト4の前に壁があるかのようだった。
■予選リーグ1位通過、さらに準決勝へ
2002年、オフト監督が就任してチームを土台から作り直し始めた。その成果が出るには時間がかかった。Jリーグで初白星を挙げたのは第5節。ワールドカップの中断期間直前、4月20日の第7節まで2勝1分4敗と低調な成績だった。
4月27日から始まったナビスコカップ予選リーグでは、日本代表選手の分布が勝敗を分けたのかもしれない。レッズが所属したグループの名古屋グランパス(エイト)からはGKの楢崎正剛がメンバー入りしていたし、鹿島アントラーズは秋田 豊、鈴木隆行、柳沢 敦、中田浩二、小笠原満男、曽ヶ端 準の6人が日本代表だった。
相手チームの戦力ダウンと、シーズンインから3ヵ月たってレッズが新戦術に慣れてきたこと、この2つが要因だったのだろう。ナビスコカップ予選リーグの初戦と第2節で名古屋、鹿島に勝利。広島にはアウェイで引き分けたが、次のホームで勝利。そして第5節、アウェイの鹿島戦にトゥットのハットトリックで勝ち、最終節を残してグループ1位での予選リーグ通過が決まった。
決勝トーナメントは9月4日に始まった。リーグ戦は7月13日に再開して約2ヵ月。第8節から第1ステージ最終節の15節まで、8試合を3勝5敗とあまり芳しい結果ではなかった。それでも8月31日、第2ステージ開幕の広島戦にVゴール勝ちして迎えたナビスコカップ準々決勝。この年はワールドカップにより日程が詰まっており、決勝トーナメントはホーム&アウェイではなく一発勝負で行なわれた。相手は柏レイソル、会場はホーム駒場スタジアムだった。前半0-0と固い試合になったが、後半エメルソンが挙げた先制点を守りきって勝った。ナビスコカップで初めて準々決勝を勝ち進み、ベスト4へ進んだのだった。
■ガンバとの激闘はVゴールで決着
準決勝は1ヵ月後の10月2日。その間にリーグ戦5試合を消化したが、第1ステージ5勝1分9敗という低調ぶりとうって変わって4勝1分けという好成績で進んだ。
第2ステージ開幕から通算して公式戦6勝1分の負けなしで臨んだ準決勝・ガンバ大阪戦。今回はアウェイの万博競技場だった。レッズと同じくJリーグ創設時からのクラブで、それまで無冠だったことでも共通するガンバ大阪はこの年から西野 朗監督が指揮を執り、リーグ戦で第1ステージ4位と強化が成功していた。長身FWマグロンを擁し、宮本恒靖を始め、二川孝広、橋本英郎、大黒将志、新井場 徹らのガンバ大阪ユース出身者が核となって、前年までとは違う波のないチームになっていたのだった。
試合は前半20分、エメルソンが先制。決勝への扉に手をかけたが、34分、38分とマグロンに立て続けに決められ逆転を許す。しかしレッズも後半4分にエメルソンが同点弾を放ち振り出しに戻すと、その後は双方チャンスを作りながら追加点がなく、Vゴール方式の延長へ。延長前半も0-0で、エンドが替わった延長後半2分。ガンバ大阪エリア内でDFのボールへの対応が乱れたところをエメルソンが逃さずシュート。これが決まって107分間の激闘に終止符を打った。
初めてつかんだ決勝への切符。水曜のナイターにも関わらず万博までチームの後押しに駆けつけたレッズサポーターの顔は、応援の汗か涙か、濡れていた。ちなみにガンバ大阪はこの年のリーグ戦第2ステージで2位になっている。
■タイトル奪取へ、11年の思いを凝縮
決勝は11月4日、国立競技場。相手は鹿島アントラーズに決まった。
そのころリーグ戦では、第7節から9節まで連勝し、公式戦通算11試合負けなし(10勝1分)という、チーム記録を塗り替えていたのだが、決勝直前の2試合で鹿島と東京ヴェルディに連敗していた。だが、いずれも僅差での敗戦で(鹿島戦はトゥットが不可解が判定で退場になった後決勝点を決められ、東京V戦は延長Vゴール負け)、レッズサポーターの勢いは弱まらなかった。ナビスコカップ優勝で、リーグ戦にも再び弾みをつけようと、争って決勝のチケットを入手した。
発売開始から10分もしないうちに指定席も含めてチケットは完売。急きょ、駒場スタジアムとさいたまスーパーアリーナでのパブリックビューイング実施が決定した。試合前日の3日には「Reds' Eve」と題するイベントが開催され、ギド・ブッフバルト、ウーベ・バイン、アイトール・ベギリスタイン、ゼリコ・ペトロビッチら、かつてレッズに大きな足跡を残した4人の元外国籍選手が激励に訪れた。
ホームゲームでしか発行しないオフィシャル・マッチデー・プログラム(MDP)が、多くのサポーターからの強い要望により、決勝に向けた特別号として製作された。当日の国立競技場では販売できないため、前日レッドボルテージでの販売となり長蛇の列ができた。
レッズ誕生から11年。初めてのファイナリスト。念願のタイトルに手が届く。さまざまな思いが凝縮され、行動に移されていった。すべては11月4日、その日に向けて。
3日、国立競技場の周りや隣の明治公園にはキックオフを待ちきれないサポーター、入場の順番取りをするサポーターが詰めかけ、夜を明かした。そこへ、前夜祭でニューヒーロー賞に坪井慶介が輝いたという一報がもたらされ、にぎわいに拍車をかけた。
■ファイナリストならではの悔しさ胸に翌年へ
試合当日、スタンドは5万6,054人のナビスコカップ決勝の最多入場者で埋まった。1992年の第1回大会こそ5万6,000人という発表があったが、翌年以降は4万人を一度超えただけで、ほぼ2万人台、3万人台という数字だった決勝が、天皇杯の元日決戦を上回る熱気で盛り上がった。レッズサポーターは選手入場時にスタンドに星型を描き、モチベーションを高めた。
しかし代表選手がそろっている鹿島は強かった。また、それまで8つの国内タイトルを獲得している実績がプレーの自信となって表れていた。レッズの先発メンバーで優勝を経験しているのは井原正巳(横浜マリノス時代)だけで、大舞台を意識してか、それまでの勢いが見られず動きが硬かった。
後半14分、鹿島・小笠原がやや遠目から放ったシュートが井原の背中に当たり、大きな弧を描いてGK山岸の手を越えてゴールネットへ。シュート自体は枠を外れていたと思われるだけに悔まれる失点だったが、1点は1点。先制した鹿島はさらに慣れた試合運びでレッズの反撃をいなし、通算9度目のタイトルを手にしたのだった。
勝利を信じていたレッズサポーターは静まり返り、準優勝の表彰を受ける選手たちは無表情で、その目は赤くなっていた。
だが、それはファイナリストでなければ味わえない悔しさだった。決勝という最後のステージに登り詰めた者だからこそ、優勝の栄冠か、相手の優勝を目の前で見る屈辱か、どちらかを持ち帰ることになる。レッズが初めてファイナリストになった2002年は後者だった。だが、この11月4日が、翌年の初戴冠を始めとする躍進の原動力の一つだったことは間違いないだろう。
【浦和レッズオフィシャルメディア(URD:OM)】