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【特別コラム】「Jリーグの日」に思う~忘れ得ぬ5.16
今季のガンバ大阪対浦和レッズは、5月16日(日)に行われる。スタジアムこそ違え、ちょうど28年前に「1993Jリーグ サントリーシリーズ 第1節」として、すなわちJリーグ開幕戦の一つとして行われたものと同じカードだ。この日のことは、日付と共にこれからも忘れることはないだろう。
「Jリーグの日」は5月15日とされている。
ヴェルディ川崎対横浜マリノスの1試合だけが先行して国立競技場で行われ、豪華なイベントに導かれて日本のプロサッカーがスタートした。
筆者は自宅でテレビを見ており、それまでの3年間Jリーグの浦和招致に関わってきた者として相当な感慨を覚えながらも、MDPの担当として「明日もこんなに盛り上がるんだろうか」「わが浦和レッズは開幕戦に勝てるのか、またこの両チームに勝てるのか」と現実的なことを考えていた。
正直なところ筆者にとっての「Jリーグの日」は5月16日なのだが、それはともかく、あれはプロサッカーのスタートであると同時に、日本のスポーツ界にプロ化の波を起こした日だったし、多くの人々の暮らし、さらには生き方にまで影響を与えた日だった。
そんな思いを胸に「あの日」を振り返ってみたい。
振り返るにあたり、Jリーグ開幕時に選手としてプレーしていた名取 篤レッズジュニアユースコーチ兼スカウト(当時MF)、土田尚史スポーツダイレクター(当時GK)、西野 努テクニカルダイレクター(当時DF)に話を聞いた(文中敬称略)。
大成功だったプレ大会、92年ナビスコカップ
1992年、Jリーグの前哨大会とも言うべき、Jリーグヤマザキナビスコカップが9月から行われた。
90分で同点でも引き分けなし、延長戦で点が入らなければPK戦で勝敗を決める完全決着。しかも延長戦ではどちらかに点が入った時点で試合が終了するサドンデスゴール(Vゴール)方式。それまでにない緊張感のあるルールに、観客は興奮した。だが、見る者の胸を躍らせた最大の理由は、自分たちのプレーにお金を払って見に来てくれる人たちがこんなにも大勢いる。自分たちのキックに、ドリブルに、スライディングに、ヘディングに観客が感動している。その歓びを知った選手たちが、自らの力を100パーセント、いやそれ以上のものをピッチで披露したからだろう。
浦和レッズはホームスタジアムとなる浦和駒場競技場が改修中だったため、大宮公園サッカー場、川越運動公園陸上競技場を使用しホームゲーム4試合を行ったが、9月5日の初戦で4,934人が集まったのを皮切りに入場者数は一気に増え、最後の試合は前売り段階でチケットが完売、スタジアムは満員になった。他のクラブでも同様の状況で、中にはここまでの人気を予想せず招待券を大量に配布したため、試合当日にチケットを持った人が入場できない、というトラブルになった試合もあった。
Jリーグカップは名称こそYBCルヴァンカップと変わったものの、同一協賛社による大会として29回目を数えているが、初回の1992年大会は、Jリーグのプレ大会として十二分に役割を果たしたと言える。



高まるサッカー人気、満を持して迎えた開幕
5月にJリーグ開幕を控えた1993年は、もう一つ大きなサッカー大会があった。1994年FIFAワールドカップアメリカ大会のアジア予選だ。4月から約1ヵ月間かけて行われた一次予選において、日本は7勝1分けで1位となり、秋に行われる最終予選へ進んだ。
この1次予選は、サッカーファンならずとも日本中が応援し、結果に歓喜した。サッカー人気が史上最高に高まった時期だった。その日本代表選手のほとんどが、今度はJリーグの各クラブに分かれて戦うのだ(一部の代表選手はJFL所属だった)。期待が膨らまないはずがない。正に満を持してJリーグの開幕を迎えたのだった。
いよいよ5月15日を迎えた。翌日、G大阪との試合を控えたレッズの選手たちは、V川崎対横浜Mのオープニングマッチを大阪のホテルで見た。
名取は「セレモニーが凄かった。明日はどんなふうになるんだろう」と思った。土田は「自分たちよりも周りが盛り上がってるな」と客観的に見ている一方、翌日の自分たちの試合のことを考えると興奮気味だった。日本リーグ時代を経て、この日を迎えた選手たちにとって「いよいよ始まるんだな」という思いは共通していた。
5月16日19時、万博記念競技場。レッズのJリーグはここからスタートした。
当時のスタンドは、チアホーンが鳴り響き、多くの観客がフラッグを持っていた。「1人が1本ずつ持っていたんじゃないか」(土田)と見まごうほどだった。そしてこのころの特徴として「ガンバとレッズの境界線がはっきりしなかった」(名取)というほどメインスタンドやバックスタンドでは双方のファンが混在していたが、トラブルはなかった。
試合は前半29分、G大阪の和田昌裕がCKのこぼれ球を蹴り込んで先制。レッズは終始攻勢を取っていたが、ビハインドを埋められず、そのまま初戦を落とした。悔しい負けだった。
名取は「レッズサポーターの応援が凄くて、ずーっと声が途切れなかったことを覚えている。緊張感よりもやっていて楽しかった。終わったときは充実感が強く、それほど落ち込まなかった」と振り返るが「いま考えると、あの試合は勝ちたかった」と悔しさの方がよみがえるようだ。
土田は「スタジアムはとても盛り上がっていたし、トラブルもあったけどショーアップされて、特別な雰囲気はあった。しかし入場のとき、相手を見ると、ついこの間までやっていた松下電器時代の選手が何人もいた」と語る。そう。当時は各国の代表経験がある外国籍選手や将来性豊かな大卒、高卒ルーキーもいたが、Jリーガーの多くが前年の3月に閉幕した日本リーグで活躍した選手たちだった。
大卒ルーキーで、このG大阪戦でベンチに入っていたが出番のなかった西野は、開幕戦でそれほど衝撃を感じなかったと言う。
「開幕前にプレシーズンマッチでいろいろ回ったが、どこへ行っても人でいっぱいだった。初めて出たのが群馬での試合で、雰囲気やスタンドの反応にびっくりした。駒場でもプレシーズンマッチがあったので、開幕戦を待たずして、もう始まっている感じがしていた。ガンバ戦で一番印象に残っているのが、ハーフタイムに演出のため消した照明が後半開始時間になっても点灯せず、ハーフタイムがだいぶ延びたこと(笑)」


初めて知った、浦和での勝利の味
開幕すると、サントリーシリーズ(第1ステージ)の18試合が毎週水曜、土曜の2回ぶっ通しで行われた。中2日、中3日で休みなく試合がやってくる日程では、戦術の浸透や課題の改善はおろか、疲労の回復もおぼつかない。当時を知るアスレティック・トレーナーは「どのチームも選手の疲労はかなり溜まっていたはず。しかし満員のスタジアムに入ると、そんなことは忘れてしまう。去年まで自分たちがやっていた環境とまったく違う雰囲気の中でプレーしていると、自分の力以上のことをやってしまうこともあった」と語り、その結果ケガにつながることも少なくなかったと言う。
主力としてこの年新たに獲得した外国籍選手がまったく力を発揮できなかったこともあって、浦和レッズはなかなか勝ち星に恵まれなかった。3連敗のあと、第4節のジェフユナイテッド市原戦ではルーキーの西野にも先発のチャンスがやってきた。「入場のときはさすがに緊張した。相手にはリトバルスキーもいたし、場所は国立競技場だったし」。しかし0-1で敗れ4連敗となった。
第5節。シーズン2度目のホームゲームの相手はヴェルディ川崎。前年のヤマザキナビスコカップ覇者であり、日本代表選手を何人も抱えるチームだ(レッズの代表選手は当時福田正博1人)。また前年の天皇杯準決勝では、延長で2-2の末PK戦で敗れた相手でもあった。
前半6分、V川崎がいきなり先制した。またか、と肩を落とすところだが、「日本リーグ時代から、読売クラブ(V川崎の前身)は苦手ではなかった」と名取が言うように、選手たちのモチベーションは高かった。ホームで5連敗など絶対にしない、という気持ちの強さもあっただろう。後半4分、名取の縦パスを身体で受けた河野真一がシュート。V川崎のネットを揺らした。その後1-1から延長でもスコアは動かずPK戦へ。先蹴りのレッズが1人目から4人目まで連続で決めたのに対し、V川崎は先頭キッカーが外し、2人目、3人目は決めたものの、4人目のシュートはバーの上へ。PK4-2でレッズがJリーグ初勝利を挙げた。
「同点ゴールは自分のアシストみたいになっているけど、あれはシュートだった(笑)。勝ったときには優勝したみたいな気持ちだった」(名取)。
「ヴェルディの先頭キッカー、柱谷哲二さんにはなぜか昔からPKを決められたことがなかった」(土田)
「試合中はメチャメチャ攻められていた。守るのに一所懸命で河野さんの同点ゴールは見ていない。PK戦のときには、自分まで回ってくるなよ、と思っていた」(西野)
その夜、浦和のまちは季節外れのお祭りのようだった。
ホームでレッズが勝つことの素晴らしさを初めて浦和市民が味わった日だったが、この年駒場では17試合のうち6回しか勝てなかった。それだけに毎回がお祭り騒ぎだった。





レッズの勝敗が浦和市民の関心事
前年のナビスコカップは予選リーグ9試合の短期決戦だったが、93年のJリーグは通算36試合の長丁場。試合が続くうちにいろいろなことが固まってきた。
「これがプロリーグか、という一番はサポーターの存在。ナビスコカップは、急にサッカーが盛り上がった感じだったが、ある意味でお祭り的だった。93年は、自分の後ろにサポーターの中心があって、常に声を出してくれていた。応援が徐々にレッズオリジナルのものになっていって、試合が進むにつれて、そこに人が増えていくのを感じていた」とは、試合中最もスタンドの近くにいた土田の弁だ。
また名取は「自分は浦和出身だからもともと友人も多かったが、歩いていても知らない人に声を掛けられるようになった。自分の知らない人たちが応援してくれるというのを初めて感じた。応援してくれる人たちのために戦う、という意識がすごく強くなっていった。それと共にいつも見られている意識も強くなったからシーズン中は外で食事したりお酒を飲んだりはしなかった」と語る。
西野は「当時は市内のビジネスホテルが選手寮代わりで、試合の行き帰りにバスが着くと、フェイスペイントをした高校生や中学生の女子がいっぱいだった。自分にもファンレターが来て、急に有名人になった感じがした。社会現象だったと思う。またホームの前日は駒場で練習していたが、駒場の周りにテントが張られていた。何だろうと思いつつ、当時はそれが普通の光景だと思っていたが、いま考えると普通とは言えない」と当時を思い出した。
駒場のチケットは発売と同時に完売。それでも試合にはチケットを持たない人が駒場を訪れ、扉の隙間からのぞいたり、フェンスによじ登ったりする光景が普通になった。はては、子供がバックスタンド裏の木に登って見るという危険な行為もあった(これはスタッフが注意してやめてもらった)。
「浦和レッズの試合が見たくても見られない」
駒場競技場は93年の開幕前に、Jリーグ仕様に合わせて改修されたものだが、Jリーグ開幕からわずか1年余りの94年6月、収容人数を2倍にする再改修に浦和市が踏み切った背景には、そういう市民の切実な声があった。
当時は携帯電話もまだ普及しておらず、試合結果を外で知るすべはほとんどなかった。都内から帰ってきた人が浦和駅や北浦和駅を降りてレプリカを着たサポーターを見ると「きょうレッズ勝ちましたか?」と尋ねることは珍しくなかった。スタジアムへ行かなくても(行けなくても)、レッズの勝敗は多くの市民の関心事だった。



いま、あらためて歴史を知り、大切なことを考えよう
29回目の「Jリーグの日」が来る。
試合のレベルも、戦術も、施設も、試合運営も、あらゆるものが進化していると言っていいだろう。
だが自分たちのサッカークラブを愛する人々の熱さは変わっていないように思う。なぜなら29年前からすでに火傷しそうに熱かったからだ。
名取は、Jリーグ2試合と天皇杯を残した12月1日、試合中に左足の親指を骨折した。しかしシーズン中は病院へ行かず、出場を続けた。「いま思うとプロとしては良くなかったかもしれない。しかし、試合に出続けたいという気持ちにさせてくれる何かがあった」とその理由を明かす。
土田は、「あのころの自分は、浦和の人たちと普通に食事してお酒も飲んだ。町の神輿もかついだし、浦和おどりも踊った。浦和との関わりでは礎を築いたつもりだし、浦和の人たちもそれを受け入れてくれたと思う。今の選手たちに、同じようにやれとは言えないが、浦和の人たちと思いを通わせるようなことをもっとやっていい」と言う。
西野は、「自分は本来、プロでやれるレベルではなかった。森(孝慈=当時レッズ監督)さんに誘われてレッズに入ったが、プロになってから鍛えて、自分の強みを生かす形で起用されるようになって、ようやくチームに貢献できるようになった。大学を出るまで埼玉に一度も来たことのなかった自分が、浦和でプロサッカー選手になったのも縁だし、現役を引退してからだいぶ経ったいま、フロント業務をしているというのも縁だと思う」と振り返る。
ここ28年の間にプロ化に踏み切る、あるいはプロ化を目指すスポーツ団体が増えてきた。またプロスポーツの先輩であるプロ野球がチーム名に地域名を冠するようになってきた。それは、Jリーグがスタートする際に採用された、当時の日本では新しい試み、ホームタウン制、チーム名から企業名を外すこと、入場者の実数発表、アカデミーの育成などと無関係ではないはずだ。
日本のスポーツ文化に多大な影響を与えてきたJリーグに関わりを持つ者として、ファン・サポーターは胸を張れる。
だが最も大事なこと。
Jリーグは一つひとつのクラブから成り立っているし、クラブはファン・サポーター、パートナー(スポンサー)、ホームタウンの人々、自治体などによって支えられている。
「Jリーグの日」を機会に、浦和レッズの29年間を知り、いま何が大切かをそれぞれが考えてみるのも有意義なことだと思う。
【清尾 淳(浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム)】
「Jリーグの日」は5月15日とされている。
ヴェルディ川崎対横浜マリノスの1試合だけが先行して国立競技場で行われ、豪華なイベントに導かれて日本のプロサッカーがスタートした。
筆者は自宅でテレビを見ており、それまでの3年間Jリーグの浦和招致に関わってきた者として相当な感慨を覚えながらも、MDPの担当として「明日もこんなに盛り上がるんだろうか」「わが浦和レッズは開幕戦に勝てるのか、またこの両チームに勝てるのか」と現実的なことを考えていた。
正直なところ筆者にとっての「Jリーグの日」は5月16日なのだが、それはともかく、あれはプロサッカーのスタートであると同時に、日本のスポーツ界にプロ化の波を起こした日だったし、多くの人々の暮らし、さらには生き方にまで影響を与えた日だった。
そんな思いを胸に「あの日」を振り返ってみたい。
振り返るにあたり、Jリーグ開幕時に選手としてプレーしていた名取 篤レッズジュニアユースコーチ兼スカウト(当時MF)、土田尚史スポーツダイレクター(当時GK)、西野 努テクニカルダイレクター(当時DF)に話を聞いた(文中敬称略)。
大成功だったプレ大会、92年ナビスコカップ
1992年、Jリーグの前哨大会とも言うべき、Jリーグヤマザキナビスコカップが9月から行われた。
90分で同点でも引き分けなし、延長戦で点が入らなければPK戦で勝敗を決める完全決着。しかも延長戦ではどちらかに点が入った時点で試合が終了するサドンデスゴール(Vゴール)方式。それまでにない緊張感のあるルールに、観客は興奮した。だが、見る者の胸を躍らせた最大の理由は、自分たちのプレーにお金を払って見に来てくれる人たちがこんなにも大勢いる。自分たちのキックに、ドリブルに、スライディングに、ヘディングに観客が感動している。その歓びを知った選手たちが、自らの力を100パーセント、いやそれ以上のものをピッチで披露したからだろう。
浦和レッズはホームスタジアムとなる浦和駒場競技場が改修中だったため、大宮公園サッカー場、川越運動公園陸上競技場を使用しホームゲーム4試合を行ったが、9月5日の初戦で4,934人が集まったのを皮切りに入場者数は一気に増え、最後の試合は前売り段階でチケットが完売、スタジアムは満員になった。他のクラブでも同様の状況で、中にはここまでの人気を予想せず招待券を大量に配布したため、試合当日にチケットを持った人が入場できない、というトラブルになった試合もあった。
Jリーグカップは名称こそYBCルヴァンカップと変わったものの、同一協賛社による大会として29回目を数えているが、初回の1992年大会は、Jリーグのプレ大会として十二分に役割を果たしたと言える。



高まるサッカー人気、満を持して迎えた開幕
5月にJリーグ開幕を控えた1993年は、もう一つ大きなサッカー大会があった。1994年FIFAワールドカップアメリカ大会のアジア予選だ。4月から約1ヵ月間かけて行われた一次予選において、日本は7勝1分けで1位となり、秋に行われる最終予選へ進んだ。
この1次予選は、サッカーファンならずとも日本中が応援し、結果に歓喜した。サッカー人気が史上最高に高まった時期だった。その日本代表選手のほとんどが、今度はJリーグの各クラブに分かれて戦うのだ(一部の代表選手はJFL所属だった)。期待が膨らまないはずがない。正に満を持してJリーグの開幕を迎えたのだった。
いよいよ5月15日を迎えた。翌日、G大阪との試合を控えたレッズの選手たちは、V川崎対横浜Mのオープニングマッチを大阪のホテルで見た。
名取は「セレモニーが凄かった。明日はどんなふうになるんだろう」と思った。土田は「自分たちよりも周りが盛り上がってるな」と客観的に見ている一方、翌日の自分たちの試合のことを考えると興奮気味だった。日本リーグ時代を経て、この日を迎えた選手たちにとって「いよいよ始まるんだな」という思いは共通していた。
5月16日19時、万博記念競技場。レッズのJリーグはここからスタートした。
当時のスタンドは、チアホーンが鳴り響き、多くの観客がフラッグを持っていた。「1人が1本ずつ持っていたんじゃないか」(土田)と見まごうほどだった。そしてこのころの特徴として「ガンバとレッズの境界線がはっきりしなかった」(名取)というほどメインスタンドやバックスタンドでは双方のファンが混在していたが、トラブルはなかった。
試合は前半29分、G大阪の和田昌裕がCKのこぼれ球を蹴り込んで先制。レッズは終始攻勢を取っていたが、ビハインドを埋められず、そのまま初戦を落とした。悔しい負けだった。
名取は「レッズサポーターの応援が凄くて、ずーっと声が途切れなかったことを覚えている。緊張感よりもやっていて楽しかった。終わったときは充実感が強く、それほど落ち込まなかった」と振り返るが「いま考えると、あの試合は勝ちたかった」と悔しさの方がよみがえるようだ。
土田は「スタジアムはとても盛り上がっていたし、トラブルもあったけどショーアップされて、特別な雰囲気はあった。しかし入場のとき、相手を見ると、ついこの間までやっていた松下電器時代の選手が何人もいた」と語る。そう。当時は各国の代表経験がある外国籍選手や将来性豊かな大卒、高卒ルーキーもいたが、Jリーガーの多くが前年の3月に閉幕した日本リーグで活躍した選手たちだった。
大卒ルーキーで、このG大阪戦でベンチに入っていたが出番のなかった西野は、開幕戦でそれほど衝撃を感じなかったと言う。
「開幕前にプレシーズンマッチでいろいろ回ったが、どこへ行っても人でいっぱいだった。初めて出たのが群馬での試合で、雰囲気やスタンドの反応にびっくりした。駒場でもプレシーズンマッチがあったので、開幕戦を待たずして、もう始まっている感じがしていた。ガンバ戦で一番印象に残っているのが、ハーフタイムに演出のため消した照明が後半開始時間になっても点灯せず、ハーフタイムがだいぶ延びたこと(笑)」


初めて知った、浦和での勝利の味
開幕すると、サントリーシリーズ(第1ステージ)の18試合が毎週水曜、土曜の2回ぶっ通しで行われた。中2日、中3日で休みなく試合がやってくる日程では、戦術の浸透や課題の改善はおろか、疲労の回復もおぼつかない。当時を知るアスレティック・トレーナーは「どのチームも選手の疲労はかなり溜まっていたはず。しかし満員のスタジアムに入ると、そんなことは忘れてしまう。去年まで自分たちがやっていた環境とまったく違う雰囲気の中でプレーしていると、自分の力以上のことをやってしまうこともあった」と語り、その結果ケガにつながることも少なくなかったと言う。
主力としてこの年新たに獲得した外国籍選手がまったく力を発揮できなかったこともあって、浦和レッズはなかなか勝ち星に恵まれなかった。3連敗のあと、第4節のジェフユナイテッド市原戦ではルーキーの西野にも先発のチャンスがやってきた。「入場のときはさすがに緊張した。相手にはリトバルスキーもいたし、場所は国立競技場だったし」。しかし0-1で敗れ4連敗となった。
第5節。シーズン2度目のホームゲームの相手はヴェルディ川崎。前年のヤマザキナビスコカップ覇者であり、日本代表選手を何人も抱えるチームだ(レッズの代表選手は当時福田正博1人)。また前年の天皇杯準決勝では、延長で2-2の末PK戦で敗れた相手でもあった。
前半6分、V川崎がいきなり先制した。またか、と肩を落とすところだが、「日本リーグ時代から、読売クラブ(V川崎の前身)は苦手ではなかった」と名取が言うように、選手たちのモチベーションは高かった。ホームで5連敗など絶対にしない、という気持ちの強さもあっただろう。後半4分、名取の縦パスを身体で受けた河野真一がシュート。V川崎のネットを揺らした。その後1-1から延長でもスコアは動かずPK戦へ。先蹴りのレッズが1人目から4人目まで連続で決めたのに対し、V川崎は先頭キッカーが外し、2人目、3人目は決めたものの、4人目のシュートはバーの上へ。PK4-2でレッズがJリーグ初勝利を挙げた。
「同点ゴールは自分のアシストみたいになっているけど、あれはシュートだった(笑)。勝ったときには優勝したみたいな気持ちだった」(名取)。
「ヴェルディの先頭キッカー、柱谷哲二さんにはなぜか昔からPKを決められたことがなかった」(土田)
「試合中はメチャメチャ攻められていた。守るのに一所懸命で河野さんの同点ゴールは見ていない。PK戦のときには、自分まで回ってくるなよ、と思っていた」(西野)
その夜、浦和のまちは季節外れのお祭りのようだった。
ホームでレッズが勝つことの素晴らしさを初めて浦和市民が味わった日だったが、この年駒場では17試合のうち6回しか勝てなかった。それだけに毎回がお祭り騒ぎだった。





レッズの勝敗が浦和市民の関心事
前年のナビスコカップは予選リーグ9試合の短期決戦だったが、93年のJリーグは通算36試合の長丁場。試合が続くうちにいろいろなことが固まってきた。
「これがプロリーグか、という一番はサポーターの存在。ナビスコカップは、急にサッカーが盛り上がった感じだったが、ある意味でお祭り的だった。93年は、自分の後ろにサポーターの中心があって、常に声を出してくれていた。応援が徐々にレッズオリジナルのものになっていって、試合が進むにつれて、そこに人が増えていくのを感じていた」とは、試合中最もスタンドの近くにいた土田の弁だ。
また名取は「自分は浦和出身だからもともと友人も多かったが、歩いていても知らない人に声を掛けられるようになった。自分の知らない人たちが応援してくれるというのを初めて感じた。応援してくれる人たちのために戦う、という意識がすごく強くなっていった。それと共にいつも見られている意識も強くなったからシーズン中は外で食事したりお酒を飲んだりはしなかった」と語る。
西野は「当時は市内のビジネスホテルが選手寮代わりで、試合の行き帰りにバスが着くと、フェイスペイントをした高校生や中学生の女子がいっぱいだった。自分にもファンレターが来て、急に有名人になった感じがした。社会現象だったと思う。またホームの前日は駒場で練習していたが、駒場の周りにテントが張られていた。何だろうと思いつつ、当時はそれが普通の光景だと思っていたが、いま考えると普通とは言えない」と当時を思い出した。
駒場のチケットは発売と同時に完売。それでも試合にはチケットを持たない人が駒場を訪れ、扉の隙間からのぞいたり、フェンスによじ登ったりする光景が普通になった。はては、子供がバックスタンド裏の木に登って見るという危険な行為もあった(これはスタッフが注意してやめてもらった)。
「浦和レッズの試合が見たくても見られない」
駒場競技場は93年の開幕前に、Jリーグ仕様に合わせて改修されたものだが、Jリーグ開幕からわずか1年余りの94年6月、収容人数を2倍にする再改修に浦和市が踏み切った背景には、そういう市民の切実な声があった。
当時は携帯電話もまだ普及しておらず、試合結果を外で知るすべはほとんどなかった。都内から帰ってきた人が浦和駅や北浦和駅を降りてレプリカを着たサポーターを見ると「きょうレッズ勝ちましたか?」と尋ねることは珍しくなかった。スタジアムへ行かなくても(行けなくても)、レッズの勝敗は多くの市民の関心事だった。



いま、あらためて歴史を知り、大切なことを考えよう
29回目の「Jリーグの日」が来る。
試合のレベルも、戦術も、施設も、試合運営も、あらゆるものが進化していると言っていいだろう。
だが自分たちのサッカークラブを愛する人々の熱さは変わっていないように思う。なぜなら29年前からすでに火傷しそうに熱かったからだ。
名取は、Jリーグ2試合と天皇杯を残した12月1日、試合中に左足の親指を骨折した。しかしシーズン中は病院へ行かず、出場を続けた。「いま思うとプロとしては良くなかったかもしれない。しかし、試合に出続けたいという気持ちにさせてくれる何かがあった」とその理由を明かす。
土田は、「あのころの自分は、浦和の人たちと普通に食事してお酒も飲んだ。町の神輿もかついだし、浦和おどりも踊った。浦和との関わりでは礎を築いたつもりだし、浦和の人たちもそれを受け入れてくれたと思う。今の選手たちに、同じようにやれとは言えないが、浦和の人たちと思いを通わせるようなことをもっとやっていい」と言う。
西野は、「自分は本来、プロでやれるレベルではなかった。森(孝慈=当時レッズ監督)さんに誘われてレッズに入ったが、プロになってから鍛えて、自分の強みを生かす形で起用されるようになって、ようやくチームに貢献できるようになった。大学を出るまで埼玉に一度も来たことのなかった自分が、浦和でプロサッカー選手になったのも縁だし、現役を引退してからだいぶ経ったいま、フロント業務をしているというのも縁だと思う」と振り返る。
ここ28年の間にプロ化に踏み切る、あるいはプロ化を目指すスポーツ団体が増えてきた。またプロスポーツの先輩であるプロ野球がチーム名に地域名を冠するようになってきた。それは、Jリーグがスタートする際に採用された、当時の日本では新しい試み、ホームタウン制、チーム名から企業名を外すこと、入場者の実数発表、アカデミーの育成などと無関係ではないはずだ。
日本のスポーツ文化に多大な影響を与えてきたJリーグに関わりを持つ者として、ファン・サポーターは胸を張れる。
だが最も大事なこと。
Jリーグは一つひとつのクラブから成り立っているし、クラブはファン・サポーター、パートナー(スポンサー)、ホームタウンの人々、自治体などによって支えられている。
「Jリーグの日」を機会に、浦和レッズの29年間を知り、いま何が大切かをそれぞれが考えてみるのも有意義なことだと思う。
【清尾 淳(浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム)】