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「感謝」~レッズを支え続けてくれた三菱自動車 益子修さんへ~追悼の記
2016年、三菱自動車は、日産自動車からの出資を受け入れ、同社の傘下に入ることが決まった。
当時浦和レッズの株を5割以上保有していた三菱自動車がそのまま、横浜F・マリノスの親会社である日産自動車の傘下に入ることは、「一つのクラブ経営に大きな影響を及ぼす企業が、他のクラブの株式を大量保有することができない」というJリーグクラブライセンス交付規則に抵触するので、何らかの対応が迫られることになった。
三菱自動車がレッズを第三の企業に売却するのではないか、さらにはF・マリノスとレッズが合併するのではないか、など面白おかしく報道されたこともあり、多くのファン・サポーターが事態の推移に注目した。
そんなとき、当時三菱自動車の会長兼社長を務めていた益子修さんが、メディアの取材に対し「Jリーグの規定に抵触しないようきちんと対応し、浦和レッズに影響がないようにする」という趣旨の回答をされていた。
レッズの淵田敬三代表(当時)は早くから「レッズが変わることはない」と明言していたが、当の三菱自動車のトップがはっきりそう語るのを見聞きしたのはこれが初めてだった。テレビでそれを見ていた筆者は、これでファン・サポーターの不安も解消されるだろうとひと安心したものだった。同時に、それまで何度かお名前を聞いただけだった益子さんに、心の中で感謝した記憶もある。
その益子さんが8月27日、心不全のため亡くなった。その数週間前に三菱自動車の会長職を辞されたばかりだった。
来歴を見ると2005年の社長就任から16年間、浦和レッズの歴史の中で最も長く「親会社」のトップを務めていた方だった。
直接お会いしたことは一度もなかったが、レッズのオフィシャルマッチデープログラム(MDP)を製作している者として、益子さんとレッズの16年間はどういうものだったのか知りたくなり、橋本光夫元レッズ代表(2009年~2014年)と淵田敬三前代表(2014年~2019年)に話を聞いた。
1949年、東京生まれの益子さんは1972年、三菱商事に入社し自動車畑で活躍。2004年、常務として三菱自動車に籍を移し、翌年社長に就任する。品質問題により経営危機に直面していた同社を再建するためだった。財務問題を解決するだけではなく、企業として自らを律する機能を強め、関連会社も含めて、法令や社会規範を遵守することの徹底を図ったという。
2012年、浦和レッズはクラブ創立20周年を機に、それまでの企業名「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」を現在の「浦和レッドダイヤモンズ株式会社」に変更したが、この申し出を益子さんは快諾。それだけにとどまらず自ら三菱グループの主立った企業へ説明に回った。それだけ「三菱」の名は簡単に付けたり外したりできない重みがあるということだろう。
しかし社名は変わっても、浦和レッズの株式保有率は変えなかった。さいたま市、埼玉県をはじめとしたホームタウンの株主に対しては「クラブの経営に責任を持つ企業として浦和レッズを支え続ける」と表明した。
三菱自動車の経営状態が芳しくない時期でも、責任企業として数億円の広告費を拠出し続けた。その一方で、サッカークラブとしての運営にはまったく口を挟まなかったと、橋本氏も淵田氏も断言する。
もちろん関心がなかったわけではなく、レッズが降格の危機に瀕した2011年、残留への大一番となった第33節アウェイのアビスパ福岡戦では、外部の会議に出席していた益子さんが、何度も席を外して橋本氏に電話。戦況を聞いてきた。最後の5分間は電話をつなぎっぱなしにして、橋本氏に実況をさせたという。
橋本氏は就任中の経験から、年明けに新シーズンが始まるサッカークラブのトップが4月に交代するサイクルは良くないと、レッズの代表交代の時期を1月にしてくれるよう要望。三菱自動車の役員人事が確定する前に関連会社の代表が決まるというのはイレギュラーだが、益子さんはこれを了承すると共に、橋本氏に退任後も新代表のアドバイザー的な立場で1年間だけクラブに残るよう指示した。
これには後任の淵田氏も「非常にありがたかった」と振り返っている。現在の立花洋一代表(2019年~)は就任の前に1年間、副社長を務めたことで、この措置を踏襲している。
冒頭に挙げた日産自動車との問題では、淵田氏と益子さんが連携して動き、三菱自動車が引き続き支えていくことは変えずに、三菱重工業が筆頭株主となる形で解決を見た。
もともと三菱重工サッカー部がレッズのルーツだから、その後の関係もスムーズに進んでいるようだ。
やや意外な一面としては、浦和レッズレディースへは直接支援することが多かったという。チームの選手・スタッフ全員の食事会を益子さん自らも参加し開催していた。なでしこリーグの選手たちは決して楽ではない厳しい環境でサッカーを続けているのだから、それをサポートしたいということだった。
人づてに聞いただけで断じてしまうのは乱暴だが、総じて言えば、子供の成長に責任を持ちながら自主性を重んじて見守り続けてくれた父親。浦和レッズと益子さんの関わりはそういうものではなかったか、と筆者は思える。
「益子さんには感謝しかない」と語る淵田氏も、「イレギュラーな時期に退任されたので心配していた」と言う橋本氏も、これからは仕事を離れた付き合いができると楽しみにしていたようで、突然の訃報を悲しんでいた。
筆者も取材を終えて、在職中の益子さんに一度もお目にかかったことがないのが悔やまれた。浦和レッズと三菱自動車の関係について、ふだんは直接知ることがない故に、誤解したり疑心暗鬼になったりするファン・サポーターも少なくない。そこへ自分が見聞きした三菱自動車トップの考えを伝えることができれば、浦和レッズとしての結束をより強める一助になれたのではないか、と今になって思うのだ。
益子修さんのご冥福をお祈りします。
合掌
清尾淳(浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム)
当時浦和レッズの株を5割以上保有していた三菱自動車がそのまま、横浜F・マリノスの親会社である日産自動車の傘下に入ることは、「一つのクラブ経営に大きな影響を及ぼす企業が、他のクラブの株式を大量保有することができない」というJリーグクラブライセンス交付規則に抵触するので、何らかの対応が迫られることになった。
三菱自動車がレッズを第三の企業に売却するのではないか、さらにはF・マリノスとレッズが合併するのではないか、など面白おかしく報道されたこともあり、多くのファン・サポーターが事態の推移に注目した。
そんなとき、当時三菱自動車の会長兼社長を務めていた益子修さんが、メディアの取材に対し「Jリーグの規定に抵触しないようきちんと対応し、浦和レッズに影響がないようにする」という趣旨の回答をされていた。
レッズの淵田敬三代表(当時)は早くから「レッズが変わることはない」と明言していたが、当の三菱自動車のトップがはっきりそう語るのを見聞きしたのはこれが初めてだった。テレビでそれを見ていた筆者は、これでファン・サポーターの不安も解消されるだろうとひと安心したものだった。同時に、それまで何度かお名前を聞いただけだった益子さんに、心の中で感謝した記憶もある。
その益子さんが8月27日、心不全のため亡くなった。その数週間前に三菱自動車の会長職を辞されたばかりだった。
来歴を見ると2005年の社長就任から16年間、浦和レッズの歴史の中で最も長く「親会社」のトップを務めていた方だった。
直接お会いしたことは一度もなかったが、レッズのオフィシャルマッチデープログラム(MDP)を製作している者として、益子さんとレッズの16年間はどういうものだったのか知りたくなり、橋本光夫元レッズ代表(2009年~2014年)と淵田敬三前代表(2014年~2019年)に話を聞いた。
1949年、東京生まれの益子さんは1972年、三菱商事に入社し自動車畑で活躍。2004年、常務として三菱自動車に籍を移し、翌年社長に就任する。品質問題により経営危機に直面していた同社を再建するためだった。財務問題を解決するだけではなく、企業として自らを律する機能を強め、関連会社も含めて、法令や社会規範を遵守することの徹底を図ったという。
2012年、浦和レッズはクラブ創立20周年を機に、それまでの企業名「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」を現在の「浦和レッドダイヤモンズ株式会社」に変更したが、この申し出を益子さんは快諾。それだけにとどまらず自ら三菱グループの主立った企業へ説明に回った。それだけ「三菱」の名は簡単に付けたり外したりできない重みがあるということだろう。
しかし社名は変わっても、浦和レッズの株式保有率は変えなかった。さいたま市、埼玉県をはじめとしたホームタウンの株主に対しては「クラブの経営に責任を持つ企業として浦和レッズを支え続ける」と表明した。
三菱自動車の経営状態が芳しくない時期でも、責任企業として数億円の広告費を拠出し続けた。その一方で、サッカークラブとしての運営にはまったく口を挟まなかったと、橋本氏も淵田氏も断言する。
もちろん関心がなかったわけではなく、レッズが降格の危機に瀕した2011年、残留への大一番となった第33節アウェイのアビスパ福岡戦では、外部の会議に出席していた益子さんが、何度も席を外して橋本氏に電話。戦況を聞いてきた。最後の5分間は電話をつなぎっぱなしにして、橋本氏に実況をさせたという。
橋本氏は就任中の経験から、年明けに新シーズンが始まるサッカークラブのトップが4月に交代するサイクルは良くないと、レッズの代表交代の時期を1月にしてくれるよう要望。三菱自動車の役員人事が確定する前に関連会社の代表が決まるというのはイレギュラーだが、益子さんはこれを了承すると共に、橋本氏に退任後も新代表のアドバイザー的な立場で1年間だけクラブに残るよう指示した。
これには後任の淵田氏も「非常にありがたかった」と振り返っている。現在の立花洋一代表(2019年~)は就任の前に1年間、副社長を務めたことで、この措置を踏襲している。
冒頭に挙げた日産自動車との問題では、淵田氏と益子さんが連携して動き、三菱自動車が引き続き支えていくことは変えずに、三菱重工業が筆頭株主となる形で解決を見た。
もともと三菱重工サッカー部がレッズのルーツだから、その後の関係もスムーズに進んでいるようだ。
やや意外な一面としては、浦和レッズレディースへは直接支援することが多かったという。チームの選手・スタッフ全員の食事会を益子さん自らも参加し開催していた。なでしこリーグの選手たちは決して楽ではない厳しい環境でサッカーを続けているのだから、それをサポートしたいということだった。
人づてに聞いただけで断じてしまうのは乱暴だが、総じて言えば、子供の成長に責任を持ちながら自主性を重んじて見守り続けてくれた父親。浦和レッズと益子さんの関わりはそういうものではなかったか、と筆者は思える。
「益子さんには感謝しかない」と語る淵田氏も、「イレギュラーな時期に退任されたので心配していた」と言う橋本氏も、これからは仕事を離れた付き合いができると楽しみにしていたようで、突然の訃報を悲しんでいた。
筆者も取材を終えて、在職中の益子さんに一度もお目にかかったことがないのが悔やまれた。浦和レッズと三菱自動車の関係について、ふだんは直接知ることがない故に、誤解したり疑心暗鬼になったりするファン・サポーターも少なくない。そこへ自分が見聞きした三菱自動車トップの考えを伝えることができれば、浦和レッズとしての結束をより強める一助になれたのではないか、と今になって思うのだ。
益子修さんのご冥福をお祈りします。
合掌
清尾淳(浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム)