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強い浦和レッズの土台を築いてくれた指導者 ビム ヤンセンさんを悼む

浦和レッズが初めて獲得したタイトルは、2003年のJリーグヤマザキナビスコカップ(当時)だ。前年就任したハンス オフト監督の下、確実に力を付けてきたチームは、2年連続同大会のファイナリストになり、2002年は決勝で鹿島アントラーズに敗れたが、2年目の決勝では同じ鹿島を4-0で下し、雪辱を果たすと同時に初優勝を決めた。 
その当時のコーチであり、オフト監督と共に浦和レッズを成長させた、ビム ヤンセン氏が1月25日に亡くなられたという知らせが届いた。75歳だった。



2001年末に就任した森 孝慈ゼネラルマネジャー(故人)が翌年からのチーム強化のため、オフト氏を監督に招聘した際、オフト氏がコーチに推薦した人物がヤンセンさんだった。オフト監督と同じオランダ出身で、主にフェイエノールトで選手・指導者として活躍、選手時代はオランダ代表としてワールドカップにも2回出場し、2度の準優勝に貢献した。1995~96年にはJリーグ・サンフレッチェ広島の監督も務めている。
新体制の発表時には「二頭体制か」ともささやかれたが、いざ練習が始まってみるとヤンセンコーチが何かを発信したり、チームを指導したりすることは、ほとんどと言っていいほどなかった。当時の選手たちは「オフト監督の横にいて、いつもニコニコしていたのがヤンセンさん」と口をそろえて言う。

現在トップチームのコーチを務める平川忠亮氏は「チームの中で『お母さん』のような存在だった。オフトが何か言って厳しい雰囲気になっても、ヤンセンがそこにいることで少しホッとするような感じだった」と振り返る。
平川氏と同期の坪井慶介氏(現在 タレント)は「具体的に何かを指導された記憶はないが、他の人の口から『ヤンセンがツボのことをすごく評価しているよ』と聞いたことがある。トレーナーから『ツボは精神的にムラがない、とヤンセンが褒めていた』と聞かされ、うれしかった」と記憶をたどり、「ちゃんと選手のことを見ていてくれるんだな、と思った。オフトも選手をよく見ていたが、1人では目の届かないところをヤンセンが補っていたのかもしれない」と語っている。

オフト監督は、選手がサイドをドリブルしているときに、サイドバックやボランチの選手がオーバーラップする戦法は採らなかったので、「追い越し禁止」と言われていた。当時のFW永井雄一郎氏(現在 はやぶさイレブン=神奈川県2部リーグ)は「万一ボールを奪われたときに守備が手薄になるのを避けたかったのだろうけど、後ろの選手が追い越していくことでプレーの選択肢が増えるし、ボールを持った選手が突破する可能性が高まる」と考え「『追い越し禁止』を見直してもらおう」と、直訴を決意した。
チームメートと2人で向かった先はヤンセンコーチのところだった。「オフトはいつも眉間にシワを寄せているイメージだったけど、ヤンセンはやわらかそうな雰囲気だから言いやすかった」。ところが見事にはね返された。「それはチームとしての決め事だから絶対に変えられない、と言われた。まったく揺るがなかった」。永井氏は「ヤンセンとオフトの関係は非常に良くバランスが取れていたと思う。もし言葉が通じて直接もっとコミュニケーションが取れれば、ヤンセンからいろんなことを教えてもらえていたかもしれない」と少し残念そうに振り返る。

 現在、レッズのスポーツダイレクターを務める土田尚史氏は2002年から本格的にGKコーチとして活動を始め、ヤンセンさんを選手よりも近くで見ていた。
「選手としての実績はヤンセンの方がすごかったけど、チームの中ではオフトのサポート役に徹していた」と土田氏は言う。「優しいし、選手に対する愛情は深かったが、『イエス、ノー』ははっきりしていた。グレーゾーンがあると選手に負担が掛かるから。プロチームのコーチとはこうあるべき、ということを自分たちに教えてくれた」と土田氏。「あの2年間でチームの土台がしっかりできて、その後のタイトル獲得につながったと思うが、オフトとヤンセンさん、どちらか1人だけではできなかったと思う。強い信頼関係があった2人だからチームが成長できた」と感謝を述べた後「休日には、家の近くの公園を、奧さんと手をつないで散歩するヤンセンさんの姿もよく見た」と付け加えた。
ビートルズの大ファンで、2002年11月にポール マッカートニーが来日したときには東京公演に奧さんと出かけたが、公演で盛り上がりすぎて飛び跳ね、足を肉離れしたというお茶目な一面もあった。

当時の若い選手たちは、ヤンセンさんが現役時代、クラブ(フェイエノールト)でもオランダ代表でも大活躍した選手だということをあまり知らなかった。前出の坪井氏は、2003年にレッズが埼玉スタジアムで小野伸二を擁するフェイエノールトと国際親善試合(さいたまシティカップ)を行ったとき「フェイエノールトの選手やスタッフが、みんなヤンセンさんにあいさつに来るのを見て、すごい人なんだ、というのを初めて知った」と苦笑する。
また2019年5月に締結した、フェイエノールトとの「戦略的パートナーシップ協定」に基づき、研修のためにオランダのロッテルダムに渡った内舘秀樹氏(現在 レッズジュニアユース監督)は「クラブハウスに飾られた写真などを見て、ヤンセンがまさにフェイエノールトの英雄だったことを実感した。しかも本人がわざわざ来て『いま、(ヨハン)クライフと作り上げたものを本にしているんだ』と分厚いノートを見せてくれ、『指導者は選手よりサッカーのことを理解しなければならず、脳科学や心理学なども大事だ』などと語ってくれたのがありがたかった」と言う。レッズ関係者として最後にヤンセンさんと会ったことになる内舘氏は「レッズのコーチ時代は、よく人を見ていて、選手によってアプローチの仕方を変えていたと思う」と記憶している。

筆者も、ヤンセンさんと言えば浮かんでくるのは多くの選手たちと同様、いつも変わらぬ笑顔と、横に広がったカーリーヘアーから「お茶の水博士」とも言われた安心感たっぷりの風貌だ。当時は、広島の監督を務めた人がコーチとは、なんと贅沢な陣容だろう、と思ったし、経歴などを見て選手としての実績が素晴らしいと知ったが、それがオランダ国内でどういう評価をされているのかまではわからなかった。
今回、ヨーロッパのサッカーに詳しい人からも話を聞いて思ったのは、日本人の多くが知っているヨハン・クライフ氏を長嶋茂雄さんにたとえるなら、ヤンセンさんは故・野村克也さんのような存在なのだろうということだ。その競技のファンだけでなく誰もが知っている人物としてプロ野球界を例に挙げなければいけないのは少し残念だが。
29日にはロッテルダムでお別れの会が行われるが、フェイエノールトのホームページを見ると『クラブ葬』らしい。多くの人からお悔やみや功績をたたえるメッセージが寄せられたようだ。



英語圏では監督が「(HEAD)COACH」だから、日本で言うコーチは「ASSISTANT COACH」となる。これをそのまま日本語にしたから、20年前の資料では、ヤンセンさんの役職が「アシスタントコーチ」となっているが、本来は日本で言う「ヘッドコーチ」だった。オフト監督も「自分の右腕だ」と語っていた。互いに相手のすべてを理解し合っていることは、当時MDP(浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム)の取材で毎回、オフト監督に話を聞くときの雰囲気でよくわかった。あの2人は名コンビだった。

オフト時代と言えば、冒頭にも述べたように、設立12年目にして念願の初タイトルをクラブにもたらしたことが最も大きな出来事として知られている。昨年の天皇杯優勝は、浦和レッズが獲得した9個目のビッグタイトルであり、優勝の喜びはどれも記憶から消えることはないが、初めて体験した2003年の歓喜は特別なものとして刻まれている。

同時に、浦和レッズが2002年からの2年間で、優勝できるチームとしてだけでなく。優勝し続けられるチームへと変貌したこともしっかりと記録に残しておきたい。
オフト監督は就任したときに「自分たちがいなくなった後で(も)強いチームにしていくことが仕事」と語っているが、それを同監督とヤンセンコーチがしっかり実践してくれたことは、歴史が示している。
あらためて、ビム ヤンセンさんに感謝と敬意を捧げ、ご冥福を祈りたい。
Bedankt!



【清尾 淳】

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