HISTORY世界との闘いの歴史
世界を夢見ていたのは、選手より先に、サポーターだった。
日本で優勝したクラブがアジアや世界の大会に出場するのを最もうらやましく見ていたのは
レッズサポーターであり、チームの成績が伴わなかった中で、
サポーターの心意気は、チームへの応援チャントなどに表れるだけだった。
レッズサポーターが「アジアへ行こう」とはっきり宣言したのは2004年11月28日。
J1リーグ2ndステージ最終節のサンフレッチェ広島戦が終わり、選手たちが場内を一周し始めたときだ。
ゴール裏に「GO to ASIA」の文字。
2ndステージ優勝を果たし、横浜F・マリノスとのチャンピオンシップに向かうチームに対し、
送り出す言葉は「Jリーグ制覇」ではなく、その先だった。
残念ながらその年はアジアへの扉を開けなかったが、翌2005年の天皇杯優勝で2007年ACL出場の権利を獲得。クラブ、チーム、サポーターが一つになって勝ち取ったACL2007優勝を果たしたことで、
その年のクラブワールドカップ出場を決めた。
以来、2017年(UAE)、2023年(サウジアラビア)と3度出場し、
今大会で通算4度目の世界大会に挑む浦和レッズ。
過去3大会を振り返る―――
(文・清尾 淳)
FIFA Club World Cup
Japan 2007
浦和レッズが持てる全ての力を傾けてACLを制した2007年11月14日。その結果により12月のFIFAクラブワールドカップ(FCWC)出場権を得た。ACL初出場から同初優勝を経てFCWC初出場、同準決勝進出と一気に駆け上がったレッズは、欧州代表のACミランとの対戦を迎えた。
マンチェスター・ユナイテッド、アヤックス、FCバルセロナ、インテル・ミラノ、バイエルン・ミュンヘン…。欧州の強豪クラブとはそれまで何度も戦ってきたが、それらはいずれも親善試合。このミラン戦は、世界の頂点を決める決勝への出場権が懸かった正真正銘の真剣勝負。レッズの選手たちはもちろん、クラブスタッフ、そしてサポーターが待ち望んだものだった。
12月13日(木)、横浜国際競技場には味わったことのない雰囲気があった。
12月の冷気の中で、レッズサポーターが陣取る一角だけが熱かった。他のエリアでは、FCWCの準決勝を応援に来たのではなく、ヨーロッパの人気チームを生で見ることができて幸せそうな人たちが談笑していた。根っからのミラニスタが何人いたのか、真新しいミランのマフラーを身につけている人もいた。
レッズが先制して、この雰囲気を変えることを祈っていたが、かなわなかった。67分に失点し0-1で準決勝敗退が決まった。ミランに対して「胸を借りる」とかいうことではなく、勝つつもりで戦ったことは、試合後の悔しさや喪失感の大きさが示していたと思う。
レッズが初めてのFCWCで知ったものは世界の頂点との差。その3日後の3位決定戦でアフリカ代表のエトワール・サヘルを下すことで一定の成果を出すことができたが、次にFCWCの舞台でこの経験を生かすまで、10年後を待たなければならなかった。
FIFA Club World Cup
UAE 2017
2009年以降、アジア各国のクラブが力をつけてきたことで、ACL全体のレベルが上がってきた。浦和レッズは2013年、2015年、2016年とACL出場を果たしていたが、その間ベスト16が最高だった。だが4年間で3度という出場経験が蓄積したことは大きく、2017年大会で10年ぶり2度目のアジア制覇を果たし、10年ぶり2度目のFCWC出場を決めた。10年前の日本開催とは違い、海外、それも遠いUAEでの開催であり、真の力が試される機会でもあった。
一方、FCWCの欧州代表がレアル・マドリードになることは5月に決まっており、組み合わせでは準決勝でアジア代表と欧州代表が対戦することになっていた。
ACLを勝ち進むにつれ「アジアで優勝してレアルと対戦する」が合言葉のように出てきていた。その意識はACLで優勝し、アジア代表に決定してからさらに強くなり、準決勝の前に準々決勝があることを知ってはいても、周囲も含め眼中にないようだった。
12月9日、準々決勝がUAEのアブダビで行われた。相手は3日前に1回戦でオセアニア代表のオークランド・シティを下したアルジャジーラ。2016-17UAEリーグの覇者で地元アブダビを本拠地とするクラブだった。試合はレッズが主導権を握りチャンスも作りながら0-0で前半を折り返すと52分、前がかりになったところをカウンターから失点。その後、全力を挙げて1点を取りに行くが、守り切られ終了。レアル・マドリードとの対戦を意識しすぎるあまり、足もとが疎かになっていた。
レッズは12日、アルアインで行われたウィダード・カサブランカ(モロッコ=アフリカ代表)との5位決定戦を制し5位で大会を終えた。そして、この経験も一つの糧になっていく。
FIFA Club World Cup
Saudi Arabia 2023
2017年から6年後、浦和レッズは3度目のFCWC出場を果たした。
新型コロナウィルス蔓延の影響でACL2022のレギュレーションが変更。決勝の2試合のみが2023年5月に行われ、勝利したレッズがアジア最多3度目の優勝を果たした。12月にサウジアラビアで行われるFCWCまでの7カ月間、レッズはFCWCを頭に入れながらJリーグとACL2023-24グループステージを戦い、それらが終わった9日後にFCWC初戦に臨んだ。
組み合わせでは準決勝でマンチェスター・シティが待っていたが、マチェイ スコルジャ監督もFCWCについて話すときは常に「初戦はクラブ・レオン(北中米カリブ海代表=メキシコ)戦」と語っていた。
その甲斐もあり、12月15日の準々決勝では1-0でクラブ・レオンに競り勝った。しかし、19日の準決勝ではマンチェスター・シティに0-3の大敗。前半は粘り強く守っていたがアディショナルタイムにオウンゴールで失点すると、後半の反撃も実らずさらに2点を失った。
初めて出場した2007年同様、欧州代表との力の差は感じたが歴代最高位の3位を目指し、アルアハリ(アフリカ代表=エジプト)と3位決定戦を行った。2点のビハインドに一度は追い付き、その後勝ち越され2-4で敗れたが、チームの総力を挙げた、シーズン最終戦にふさわしい試合で、これがレッズ史上最多となるシーズン公式戦60試合目だった。
今年6月からアメリカで行われるFCWC2025は出場4回目となる。これまでは前回出場から10年、6年と間が空いていたが、今回は2年前に出場した選手がかなりいる。また前回と同じ監督が指揮を執るのも初めてだ。
2025年の浦和レッズが、規模や形式が一変したFCWCでどういう戦いを見せるか。筆者の個人的願望を書かせてもらえば、日本代表より早くワールドカップで8強以上を期待している。そしてクラブワールドカップの存在を、そして浦和の名を世に知らしめて欲しい。
FIFA Club World Cup
2025
浦和レッズは、アジアでは多くの強豪クラブを相手に互角以上の結果を残してきた。その結果、三度王座に就いた。
アフリカ連盟のチャンピオンには通算2勝1敗、北中米カリブ海連盟の王者にはメキシコのクラブを相手に1勝していた。南米のクラブでは、大陸王者ではないがコパ・スダメリカーナの覇者と対戦して勝ったことがある。そして欧州チャンピオンとは2度対戦して、2度とも完封負け。
これが2023年までの国際大会における浦和レッズの成績だった。
立ち位置を想定するにはデータが少ないが、世界に挑戦した経験は少なくなかった。
新生FIFAクラブワールドカップでも、やれると思っていた。
クラブ世界一を決める大会に出場するのだから、最終的に目指す場所は世界の頂点だが、まずは1勝、まずはグループステージ突破。それが目標だった。
しかし結果は想定外だった。
CAリーベル・プレートに負けたときは「まだ2試合ある」と自分を奮い立たせた。インテル・ミラノを78分までリードし、追い詰めながら、最後に負けた後は、何も考えられなかった。CFモンテレイに完敗した試合では打ちのめされた。
3試合戦って1勝もできなかったのは、これまで経験したことのない悔しさだったと語るサポーターが少なくない。それでも打ちのめされた3試合が終わって考えが少し変わった。
「レッズがクラブワールドカップに出場するチャンスは何度もないはず。この機会を逃すと一生後悔するだろうから」
そう思ってアメリカに渡ったサポーターは多かった。
しかし、大会が終った今は「この場所に戻ってきたい。次はどの国で開催されようと、今回のリベンジを果たしたい」と、2029年大会を強く意識しているサポーターがほとんどだ。
4年間で一気に駆け上がることは簡単ではない。だが歩き出さなければ、高い峰には到底たどりつけない。
クラブワールドカップに出場したからこそ、全力で闘い抜いたからこそ、世界との差を身をもって知った。その上で今、新しい境地に立っている。
強くなりたい。強くならなければいけない。
ピッチで戦った選手たち、その機会も得られなかった選手たちも同じ思いでいるだろう。もちろんクラブも。
かつてJリーグが始まったころ「サポーターの応援は日本一、チームはJリーグのお荷物」と揶揄されたレッズ。そこから10年以上かかったが、レッズは数々のタイトルを手にするようになり、チームも応援も日本一のクラブになった。
今回の大会でも世界の目を引いた浦和サポーターだったが、サポーターの思いは浦和レッズの思い。クラブ、チーム、ファン・サポーターの足並みはきっとそろう。
最後にサポーターのチャントを借りるなら、世界に浦和レッズの誇りを見せつける戦いを、ここからまた始めていきたい。
(文・清尾 淳/写真・近藤 篤)