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レッズ唯一にして最高のホペイロ ルイス ベゼーハ追悼コラム

毎年、開幕前に発行される、浦和レッズ・オフィシャル・ハンドブック。その2001年版の85ページにチームスタッフ一覧がある。

「監督-チッタ、コーチ-フラビオ…、」と始まって、最後に「用具係-ベゼーハ」とある。浦和レッズ30年の歴史でただ一度、スタッフに用具係=ホペイロが確立されたシーズンだ。



現在まで浦和レッズ唯一のホペイロだったルイス ベゼーハ ダ シルバさんは、ブラジル代表チームに帯同した経験も持つ、一流の職人だった。

そのベゼーハさんの訃報が届いた。1955年11月25日生まれの65歳だった。
彼の冥福を祈ると共に、かつて一緒に闘った仲間たち(文中敬称略)にも話を聞きながら、20年前、名ホペイロ、ベゼーハさんがレッズに何を残してくれたのか、書き残しておきたい。

サッカー界に「ホペイロ」という職業があることはJリーグが始まってしばらくして、筆者も耳にした。ポルトガル語で「用具係」を意味し、スパイクを始めとした用具を管理、整備する仕事だと聞いていたが、浦和レッズにそういう職種のスタッフはいなかった。
「主務」「副務」という名称の、いわゆるマネージャーが用具を管理しており、スパイクは選手自身が磨いていた。それが普通だと思っていた。

2001年は、前年のJ2リーグからJ1リーグ復帰を果たし「STRIKE BACK=反撃する」をキャッチフレーズに、巻き返しを図ったシーズン。レッズは前年の終盤、初めてブラジル人のスタッフや選手を招き入れ、この年から本格的なブラジル路線を導入した。3人の外国籍選手はすべてブラジル人。監督はもちろん、コーチ、GKコーチ、フィジオセラピスト、そしてホペイロ。ブラジル色が非常に濃くなった。

当時加入4年目だった小野伸二(現在 北海道コンサドーレ札幌)は、それまでホペイロという職種を知らなかった。だが、スパイクが非常に良い状態になっていることに驚いた。「靴の、本来持っている柔らかさにいつも戻っていた」と言う。スパイクだけでなくウェアに関しても「試合会場で、何も困ることがなく試合に集中できる環境を作ってくれていた」と振り返り、「こういう仕事があるんだな」と知った。小野はその年の8月、オランダのフェイエノールトに移籍したとき、ホペイロがいるのを見て「歴史の違い」を感じたという。

室井市衛(現在 浦和レッズハートフルクラブ コーチ)は、1999年まで所属していた鹿島アントラーズが誕生当時からブラジル路線だったので、ホペイロの存在も知っていた。「僕は昔からスパイクは自分で磨く派だったので」、ベゼーハさんには管理のために預けるだけだったが、「ベゼーハは会うといつも誰かのスパイクとメンテナンスの道具を持ちながら、笑顔で『ムロイ!』と迎えてくれる。それが本当にありがたかった」。室井はこの年、あまり出場機会に恵まれず、メンタル的に難しい日もあったが、ベゼーハさんの笑顔に癒やされたという。

一方、それまで用具係の役割も担っていたマネージャーたちにとっては、より衝撃的だった。
ベゼーハさんは、それまで選手個人が管理していたスパイクを全部管理した。汚れを落とし、濡れたものを乾かし、それぞれの足にフィットするように伸ばしたりもする。革の質によって違うクリームを使用しなくてはいけないが、必ず次の練習や試合までに万全の状態にする。それが1人1足ではない。

当時のトップチーム担当主務、北野大助(現在 マーケティング本部長)は「彼は朝から晩までスパイクを磨いていたという印象でした。レッズはJ1に復帰したばかり。ブラジル流を取り入れて、強いプロ集団になるための環境を整えようという時期で、ホペイロを入れるというのもその一つでした」

本場の、プロの技を持った職人がやってきた。自分たちと一緒に仕事をする先達に対してリスペクトの念を持って迎えたが、仕事のサイクルが違っていることに戸惑った。
キャンプが始まると、早朝ランニング、午前練習、午後練習と毎日3部練習となり、用具のメンテナンス回数も増える。ベゼーハさんは、スパイクだけでなくウェアも全部自分一人で管理して、他人にはやらせなかった。
「本当にスペシャリストだと思いましたし、プロの専門家としてのプライドも感じました。助かった部分もありますが、本人を見ていると、いつ寝ているんだろうという状態で、倒れるんじゃないかとハラハラしました。それで、スパイク以外のところは我々日本人スタッフにサポートさせてほしいと申し入れて納得してもらいました。時間がかかりましたけど」と北野は言う。

同じく当時のトップチーム担当副務、水上裕文(現在 フットボール本部 強化担当課長)は「ベゼーハはヴェルディ(当時 ヴェルディ川崎)に長くいたので日本語もかなり上手でした。僕たちが知らないことをいろいろ教えてくれました。たとえばヴェルディはアジアクラブ選手権などに出場していましたから、アジアではいろいろなハプニングが起こるから準備は周到にしておいた方がいいと言われたことは、6年後レッズがACL(AFCチャンピオンズリーグ)に出たときに役立ちました」と語る。
日常の仕事でも、大きな袋の上手な運び方とか、選手のシューズケースをひとまとめに大きなバッグに入れる方式など、ベゼーハさんから伝えられた合理的な手法で今も踏襲しているものは多い。

ベゼーハさんの人柄について北野は、「誰とでも仲が良く、選手が試合に出ていても出ていなくても同じように接していました。選手に『君のスパイクは、こういう思いを込めて手入れしておいたから、今日は点を取れるよ』と『言葉の魔法』を掛けることもありました。彼の仕事ぶりをみんな知っているから説得力がありますよね。彼にしかできないことだったと思います。レッズはJ1での再スタートで、意欲もありましたが不安もあり、みんな必死でした。仕事はもちろん、それ以外の部分でも貢献度は大きかったと思います。亡くなったと聞いてショックです」と語っている。

水上は「陽気なおじさん、という感じで、大原に来るファンの人たちにもニコニコ接していました。手を触るとカサカサしていて硬かったのを覚えています。去年まで、どこかのクラブで仕事をしていたと聞いたときは、ベゼーハらしいな、と思いました」と言う。

小野伸二は「みんなに愛されていた人。亡くなったと聞いて残念だし、寂しい」と電話の向こうで声を落とした。短い付き合いだったが、当時の選手たちが彼を忘れることはないだろう。



筆者は、ヴィッセル神戸と駒場で対戦した際、ベゼーハさんから「カズさん(三浦知良選手)と一緒の写真を撮ってくれないか」と頼まれたことがある。試合前の集中すべき時間に、一流選手がロッカールームから出てきてツーショットの撮影に応じる。そのことに少し驚き、彼と選手との信頼関係の強さを感じたのを覚えている。

当時のオフィシャル・マッチデー・プログラムにベゼーハさんを紹介したページがあった。それを再録して、偉大なホペイロの冥福を祈ろう。

ルイス・ベゼーハさんに感謝を込めて。


※画像をクリックされますとPDFファイルが表示されます。











【清尾 淳(浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム)】

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