COME BACK HOME URAWA KOMABA 2021 COME BACK HOME URAWA KOMABA 2021

会場浦和駒場スタジアム

聖地。
それは特定のものにとっての拠点、本拠地。

あのころ、駒場が我々の本拠地だった。

そして今、シンプルに本拠地と表現しても、
何かが足りない。
駒場はやっぱり浦和の『聖地』だ。

COME BACK HOME

12年ぶりにJ1リーグで『聖地』に帰る。
共に、楽しもう。共に、闘おう。
我々の、『聖地』で。

PHOTO GALLERY

  • 93年 サントリーシリーズ 第5節 V川崎戦(1/2)
  • 93年 サントリーシリーズ 第5節 V川崎戦(2/2)
  • 95年 NICOSシリーズ 第2節 清水戦(1/2)
  • 95年 NICOSシリーズ 第2節 清水戦(2/2)
  • 95年 NICOSシリーズ 第26節 横浜F戦(1/2)
  • 95年 NICOSシリーズ 第26節 横浜F戦(2/2)
  • 96年 第30節 横浜F戦(1/2)
  • 96年 第30節 横浜F戦(2/2)
  • 97年 1stステージ 横浜F戦(1/2)
  • 97年 1stステージ 横浜F戦(2/2)
  • 97年 SHARP CUP & 93年駒場競技場竣工記念浦和国際親善サッカー(1/2)
  • 97年 SHARP CUP & 93年駒場競技場竣工記念浦和国際親善サッカー(2/2)
  • 97年 ヤマザキナビスコカップ 準々決勝 第1戦 磐田戦(1/2)
  • 97年 ヤマザキナビスコカップ 準々決勝 第1戦 磐田戦(2/2)
  • 98年 1stステージ 第1節 市原戦(1/2)
  • 98年 1stステージ 第1節 市原戦(2/2)
  • 99年 2ndステージ 第12節、第13節、第15節(1/3)
  • 99年 2ndステージ 第12節、第13節、第15節(2/3)
  • 99年 2ndステージ 第12節、第13節、第15節(3/3)
  • 2000年 J2 第33節 大宮戦(1/2)
  • 2000年 J2 第33節 大宮戦(2/2)
  • 2000年 J2 第44節 鳥栖戦(1/2)
  • 2000年 J2 第44節 鳥栖戦(2/2)
  • 2001年 J1 1stステージ 第14節 市原戦(1/2)
  • 2001年 J1 1stステージ 第14節 市原戦(2/2)
  • 2003年 ヤマザキナビスコカップ 準決勝 第2戦 清水戦(1/2)
  • 2003年 ヤマザキナビスコカップ 準決勝 第2戦 清水戦(2/2)
  • 2004年 J1 2ndステージ 第13節 名古屋戦(1/2)
  • 2004年 J1 2ndステージ 第13節 名古屋戦(2/2)
  • 2009年 J1 第15節 神戸戦(1/2)
  • 2009年 J1 第15節 神戸戦(2/2)
93年 サントリーシリーズ 第5節 V川崎戦(1/2)
93年 サントリーシリーズ 第5節 V川崎戦(1/2) 記念すべき初勝利は2試合目だった。相手はヴェルディ川崎。当時のヴェルディ川崎は多くの日本代表選手を抱えたスター軍団であり、レッズにとっても前年に天皇杯 準決勝で敗れていた因縁の相手。先制を許したものの、後半に追いつき、PK戦の末に勝利。ここから歴史が動いた。(1/2)
93年 サントリーシリーズ 第5節 V川崎戦(2/2)
93年 サントリーシリーズ 第5節 V川崎戦(2/2) ゴールを決めた河野真一は、後に宮崎で少年団の総監督になり、そこで河野の指導を受けていたのが今季、ユースからトップチームに昇格した福島竜弥だ。その意味においても、この試合から今へと歴史はつながっている。(2/2)
95年 NICOSシリーズ 第2節 清水戦(1/2)
95年 NICOSシリーズ 第2節 清水(1/2) 94年、浦和市駒場競技場は三度目の改修工事に入った。メイン、バックのスタンドを増設して収容人数は10,000人から21,500人に倍増され、浦和市駒場スタジアムに名前を変えたホームにレッズが1年ぶりに戻ってきた。(1/2)
95年 NICOSシリーズ 第2節 清水戦(2/2)
95年 NICOSシリーズ 第2節 清水(2/2) 改修工事に入った後、サントリーシリーズでは3位になり、NICOSシリーズ第1節は長崎で横浜フリューゲルスに6-0と大勝。レッズはファン・サポーターの期待を受け、『COME HOME』した。試合前にはピッチがシート、スタンドはオフィシャルサポーターズクラブのタオルで赤く染まり、花火も打ち上げられるなど、現在の駒場のスタートが華々しく切られた。(2/2)
95年 NICOSシリーズ 第26節 横浜F戦(1/2)
95年 NICOSシリーズ 第26節 横浜F戦(1/2) Jリーグ史上初の日本人得点王が生まれたのがこのシーズンだった。レッズのエース、福田正博が得点王を争っていたのは、1990 FIFAワールドカップ イタリア大会で得点王とMVPになっていたスキラッチ。 つづきはこちら NICOSシリーズ(2ndステージ)第22節 ジェフユナイテッド市原戦で1ゴール、続く名古屋グランパスエイト戦で2ゴールを決め、スキラッチに1点差と迫った。そして第24節の鹿島アントラーズ戦ではPKのチャンスを得る。このPKでスキラッチと並ぶ31得点目を駒場で決める――そんな青写真を思い描いたファン・サポーターも多かったはずだが、名手がまさかの失敗。それでもスキラッチがケガで欠場する中、第25節 ヴェルディ川崎戦でヘディングシュートを決め、福田の得点王はほぼ確定した。(1/2)
95年 NICOSシリーズ 第26節 横浜F戦(2/2)
95年 NICOSシリーズ 第26節 横浜F戦(2/2) ただ、それもトップタイ。単独得点王になるためには、駒場で迎えた最終節でゴールを決める必要があった。相手は、そのシーズンの3試合で3得点を決め、PK戦でも成功させていた横浜フリューゲルス。そして0-0で迎えた75分だった。 つづきはこちら PKを得ると、キッカーはもちろん福田。両手でペナルティースポットにボールを置き、ペナルティーエリアの外まで後退すると、大きく息を吐く。徐々に加速していく助走から右足を振り抜くと、勢いよく放たれたボールはゴール左に突き刺さった。その瞬間、福田は両手を広げ、破顔する。そしてスタンドから大量の紙吹雪が舞った。『大将』との愛称で親しまれ、後に『ミスターレッズ』と呼ばれることになる福田が駒場で伝説を生んだ瞬間だった。(2/2)
96年 第30節 横浜F戦(1/2)
96年 第30節 横浜F戦(1/2) Jリーグ史上初の記念すべきゴールが生まれたのも駒場だった。ウーベ バイン、岡野雅行がゴールを決めて2-0で迎えた79分、PKを獲得すると、ペナルティースポットに向かったのは田北雄気だった。GKとしてPKストッパーの印象も強かった田北が、自ら蹴ることになった。(1/2)
96年 第30節 横浜F戦(2/2)
96年 第30節 横浜F戦(2/2) 守るのは、後に日本代表の正GKにもなり、J1リーグ通算出場試合数トップに立つことになる楢﨑正剛。田北は見事に楢﨑の逆を突いてゴール左へ決めると、両手で大きくガッツポーズ。チームメートと熱く抱擁した。そしてこの試合ではオジェック監督とバインのJリーグ最終戦となり、すでに退団が決まっていた2人は駒場に別れを告げた。(2/2)
97年 1stステージ 横浜F戦(1/2)
97年 1stステージ 横浜F戦(1/2) 田北のゴールから約半年後、また駒場でJリーグ初の出来事が起きた。5月17日に行われた1stステージ 横浜フリューゲルス戦。前半41分に雷雨を伴う豪雨のために試合が中断。そのまま中止となった。(1/2)
97年 1stステージ 横浜F戦(2/2)
97年 1stステージ 横浜F戦(2/2) 過去にJリーグヤマザキナビスコカップで試合前に中止になったことはあったが、Jリーグかつ試合中の中断は史上初。メインスタンドの下にも水が流れ込み、騒然となった。再試合は約2ヵ月後、無事に開催された。(2/2)
97年 SHARP CUP & 93年 駒場競技場竣工記念浦和国際親善サッカー(1/2)
97年 SHARP CUP & 93年 駒場競技場竣工記念浦和国際親善サッカー(1/2) 錚々たるメンバーが駒場のピッチに立った。1997年7月22日に行われたSHARP CUP WORLD SOCCER 1997。来日したのはレッズと同じ赤をチームカラーとし、『The Red Devils(赤い悪魔)』とも呼ばれるマンチェスター ユナイテッドだった。 つづきはこちら 1stステージと2ndステージの間だったレッズに対し、シーズン開幕を控えたマンチェスター ユナイテッドはピーター シュマイケル、ロイ キーン、アンディ コール、ジョルディ クライフ、ポール スコールズ、フィリップ ネビルらが来日。一方でレッズもFCバルセロナやスペイン代表で活躍したべギリスタイン、ボルシア ドルトムントで活躍したネイハイスがレッズで初出場した。レッズが白の2ndユニフォームを着て駒場でプレーした珍しい試合は、1-2でレッズが敗戦。2ゴールを決めたのは、現在マンチェスター ユナイテッドで監督を務めるスールシャールだった。(1/2)
97年 SHARP CUP & 93年 駒場競技場竣工記念浦和国際親善サッカー(2/2)
97年 SHARP CUP & 93年 駒場競技場竣工記念浦和国際親善サッカー(2/2) SHARP CUP WORLD SOCCER 1997の約4年前、1993年4月24日に『駒場競技場竣工記念浦和国際親善サッカー』と銘打たれた試合でレッズと対戦したのはマンチェスター シティだった。 つづきはこちら 当時は同じ街のライバルであるマンチェスター ユナイテッドに水を開けられ、来日当時はプレミアリーグながらその前後にはディビジョン1(2部リーグに相当)、さらにはディビジョン2(3部リーグに相当)までもさまようようなチームだったが、後にイングランドばかりか世界でもトップレベルになるチームと『前時代』に戦ったのもレッズや駒場の歴史の1ページだ。(2/2)
97年 ヤマザキナビスコカップ 準々決勝 第1戦 磐田戦(1/2)
97年 ヤマザキナビスコカップ 準々決勝 第1戦 磐田戦(1/2) レッズのレジェンドがレッズを去った。1990年FIFAワールドカップを制したドイツ代表のメンバーであり、レッズばかりではなくJリーグ史上最高の外国籍選手との呼び声も高いギド ブッフバルトが、レッズのファン・サポーターと駒場に別れを告げた。(1/2)
97年 ヤマザキナビスコカップ 準々決勝 第1戦 磐田戦(2/2)
97年 ヤマザキナビスコカップ 準々決勝 第1戦 磐田戦(2/2) 1998年FIFAワールドカップ アジア予選の影響でJリーグは4月から10月にかけて行われたJリーグを終え、10月から11月に決勝トーナメントが行われたJリーグヤマザキナビスコカップ 準々決勝 第1戦 ジュビロ磐田戦を終えると、馬の牧場であったことが地名の由来とされている駒場で、白馬に乗ったレッズの『キング』がスタジアムを一周した。(2/2)
98年 1stステージ 第1節 市原戦(1/2)
98年 1stステージ 第1節 市原戦(1/2) レジェンドが去った次のシーズン、ニュースターが駒場でデビューした。小野伸二。高校生の晴れ舞台である全国高校サッカー選手権には一度も出場できなかったものの、 つづきはこちら 全国高等学校総合体育大会(インターハイ)や全日本ユース選手権(現在の高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会)、国民体育大会、アンダー世代の日本代表としてのAFC U-16選手権やFIFA U-17世界選手権(現在のFIFA U-17ワールドカップ)での活躍で超高校級の天才と称されていた逸材だった。(1/2)
98年 1stステージ 第1節 市原戦(2/2)
98年 1stステージ 第1節 市原戦(2/2) まだ年度が変わっていなかった3月21日、小野は高卒ルーキー、18歳で開幕戦から先発フル出場を果たした。41歳にして現役選手でありながらすでにレッズのレジェンドの一人に数えられ、日本サッカー史にも燦然と名前を輝かせるであろう天才はこの日、プロサッカー選手としての第一歩を駒場で踏み出した。(2/2)
99年 2ndステージ 第12節、第13節、第15節(1/3)
99年 2ndステージ 第12節、第13節、第15節(1/3) J1・2ndステージ第10節を終え、レッズは年間順位で15位に沈んでいた。16チーム制でJ2リーグに降格するのは2チーム。降格圏だった。残留のためになんとしても勝ち点が欲しいファイナル5。 つづきはこちら 第11節は敵地でヴィッセル神戸に0-2で敗れたものの、第12節はジェフユナイテッド市原に1-0、第13節はベルマーレ平塚に2-0と駒場で連勝を果たす。福田正博が2戦連発、平塚戦では7月にカールスルーエSCから復帰していた永井雄一郎がゴール。役者が決めた。残留への機運が高まっていく。(1/3)
99年 2ndステージ 第12節、第13節、第15節(2/3)
99年 2ndステージ 第12節、第13節、第15節(2/3) 第14節は、直前まで上位争いをしていたヴェルディ川崎と対戦し、2-1でリードしていた88分に追いつかれて引き分けに終わった。そして迎えた最終節――この駒場での出来事はあまりに有名だ。レッズのファン・サポーターではなくても、サッカーファンではなくても、当時をリアルタイムで過ごした人ならば誰もが知っているような出来事だった。(2/3)
99年 2ndステージ 第12節、第13節、第15節(3/3)
99年2nd第12節、第13節、第15節(3/3) だが、あの試合で全てが決まったわけではなかった。それまでの29試合があり、ファイナル5での駒場で勝利した2試合があった。あの連勝がなければ、『世界一悲しいVゴール』もこの世に存在していなかったのかもしれない。最終節だけではなく、そこに至るまでの過程もまた、レッズの歴史である。(3/3)
2000年 J2 第33節 大宮戦(1/2)
2000年 J2 第33節 大宮戦(1/2) 『浦和の男』がレッズを去った。ゼリコ・ペトロヴィッチ。97年に現役のユーゴスラビア代表として加入し、翌98年にはフランスで行われたFIFAワールドカップに出場したゼリコは、常に全力でプレーし、J2リーグに降格しても残留するなど、ファン・サポーターに愛された。(1/2)
2000年 J2 第33節 大宮戦(2/2)
2000年 J2 第33節 大宮戦(2/2) J1リーグ復帰への道が険しくなってきた9月、惜しまれながらも移籍を決断。駒場ラストマッチの相手は、奇しくも駒場で戦ったレッズでのデビュー戦、1997年の天皇杯3回戦と同じ相手、大宮アルディージャ(97年当時はNTT関東)だった。 つづきはこちら 後半に途中出場し、キャプテンマークを巻いてプレー。試合は0-1で敗れたが、試合後のセレモニーでは、ユニフォームを前後逆に着ながらスタジアムを一周してファン・サポーターと駒場に別れを告げた。ゼリコとは2011年、監督として再会した。(2/2)
2000年 J2 第44節 鳥栖戦(1/2)
2000年 J2 第44節 鳥栖戦(1/2) J1リーグ復帰のためには勝てばよかった。降格した前年の最終節もそうだったが、違いは延長での勝利でもよかったこと。ファン・サポーターは赤、白、黒の『デカ旗』と駒場名物の紙吹雪で選手たちを迎えた。 つづきはこちら 試合はチャンスもありながら得点を奪えず前半を0-0で終えると、後半にアジエルが決めて先制。ここでも大量の紙吹雪が駒場の空を舞った。後半に同点に追いつかれると、さらに室井市衛がPKを与えて一発退場となるが、相手がPKを失敗。絶体絶命のピンチを逃れた。(1/2)
2000年 J2 第44節 鳥栖戦(2/2)
2000年 J2 第44節 鳥栖戦(2/2) 1-1で延長に突入すると、開始前にサポーターが『好きにならずにいられない』を歌い、チームを鼓舞。延長前半から出場する岡野雅行が全速力でダッシュを繰り返し、サポーターを煽った。スタジアムのボルテージが高まると、延長前半5分だった。 つづきはこちら FKのこぼれ球を拾った土橋正樹が左足を一閃。猛烈な勢いに乗ったボールはゴール右に突き刺さる。その瞬間、レッズのJ1リーグ復帰が決まった。駒場での90分での勝利は8月19日の大分トリニータ戦が最後となり、その後の勝利はVゴールに限られていた。昇格争いをしていた3位の大分とは得失点差で並び、勝ち点差もわずかに1ポイント。苦しんだJ2リーグを28勝3分9敗で乗り越え、前年には「世界一悲しい」と言われたVゴールを歓喜に変えた。(2/2)
2001年 J1 1stステージ 第14節 市原戦(1/2)
2001年 J1 1stステージ 第14節 市原戦(1/2) 天才・小野伸二が海外へと旅立った。98年に加入し、ルーキーイヤーには18歳でFIFAワールドカップに出場し、Jリーグではベストイレブンと新人王に選出。99年にはナイジェリアで行われたFIFAワールドユース選手権(現在のFIFA U-20ワールドカップ)に永井雄一郎と共に出場し、キャプテンとしてチームを決勝に導く活躍。 つづきはこちら 99年には7月にシドニーオリンピック予選で左膝靭帯断裂の重傷を負い、チームもJ2リーグに降格したが、2000年には弱冠20歳ながらキャプテンとしてチームを牽引し、J1リーグ復帰を果たした。(1/2)
2001年 J1 1stステージ 第14節 市原戦(2/2)
2001年 J1 1stステージ 第14節 市原戦(2/2) 3年間、圧倒的なテクニックとセンス、常人には思いつかないイマジネーションで常にレッズのファン・サポーターを魅了し続けてきた小野が、この試合を最後にオランダのフェイエノールトへ移籍した。「世界で輝け伸二」。そうファン・サポーターからメッセージを送られた小野は、中心選手として活躍しながらUEFAカップ(現在のUEFAヨーロッパリーグ)を制するなど、世界で輝いた。 つづきはこちら そして2006年にレッズに復帰すると、J1リーグ優勝、天皇杯優勝、FUJI XEROX SUPER CUP優勝、そしてAFCチャンピオンズリーグ優勝とレッズの中心選手として一時代を築いた。(2/2)
2003年 ヤマザキナビスコカップ 準決勝 第2戦 清水戦(1/2)
2003年 ヤマザキナビスコカップ 準決勝 第2戦 清水戦(1/2) 一年前は痛烈な悔しさを味わった。クラブとして初めてヤマザキナビスコカップの決勝に進出。しかし、タイトルは獲れなかった。その翌シーズン、立ち上がりは予選リーグ2連敗、実績十分で活躍が期待されたエジムンドの退団など苦しみもあったが、予選リーグ最終戦のヴィッセル神戸戦で直接対決を制し、逆転で決勝トーナメントに進出。 つづきはこちら FC東京と対戦した準々決勝、駒場での第1戦はアディショナルタイムに千島 徹がゴールを決めて2-2で引き分けると、アウェイでの第2戦はエメルソンの2ゴールによって2-0で勝利、2戦合計4-2で準決勝に進出した。(1/2)
2003年 ヤマザキナビスコカップ 準決勝 第2戦 清水戦(2/2)
2003年 ヤマザキナビスコカップ 準決勝 第2戦 清水戦(2/2) 準決勝の相手は清水エスパルス。アウェイでの第1戦を0-1で落とすと、駒場での第2戦の前日にサポーター有志が浦和駅などでチラシ配りを行い、機運を高めた。 つづきはこちら 当日にも大量の紙吹雪で後押しされたチームは、田中達也の2ゴール、エメルソンのハットトリック、山瀬 功治のゴールで6-1で大勝。そして2年連続同カードとなった決勝では、鹿島アントラーズに4-0で勝利し、クラブ史上初めてタイトルを獲得。国立競技場で優勝カップを受け取った後、駒場で優勝報告会を行った。(2/2)
2004年 J1 2ndステージ 第13節 名古屋戦(1/2)
2004年 J1 2ndステージ 第13節 名古屋戦(1/2) 待ちわびた瞬間だった。2004Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ。レッズは第12節を終え、2位のガンバ大阪に勝ち点7差をつけて首位に立っていた。試合前、『史上最大の紙吹雪作戦』で新聞紙にして290年分とも言われるほどの紙吹雪が空に舞った。 つづきはこちら 試合は名古屋グランパスの8本に対して19本のシュートを放つなど、勝利を目指して戦ったが、0-2のビハインドからエメルソンがゴールを決めるにとどまり、1-2で敗戦。しかし、ガンバ大阪も敗れたことにより、2試合を残してクラブ史上初のステージ優勝を決めた。試合後、11月の夕焼けは赤いチームを祝福するかのように得も言われぬ美しさを放っていた。(1/2)
2004年 J1 2ndステージ 第13節 名古屋戦(2/2)
2004年 J1 2ndステージ 第13節 名古屋戦(2/2) Jリーグがスタートして12年。Jリーグ元年の93年から3ステージ連続で最下位になるなど、どん底から始まり、J2降格も経験したクラブが、ついにJリーグの頂点に立った。レッズ史上屈指の『伝説』が駒場で生まれた瞬間だった。(2/2)
2009年 J1 第15節 神戸戦(1/2)
2009年 J1 第15節 神戸戦(1/2) 2001年10月13日に行われた浦和レッズvs横浜F・マリノスがこけら落としとなり、2003年に正式にホームスタジアムになって以降、ホームゲームは埼玉スタジアムで行われることが増えていった。それはすなわち、駒場でのホームゲームが減ることを意味していた。2002年に9試合行われた駒場でのJ1リーグの試合は、2005年には4試合、2006年には2試合に減少した。(1/2)
2009年 J1 第15節 神戸戦(2/2)
2009年 J1 第15節 神戸戦(2/2) そして2009年6月27日、レッズは駒場にヴィッセル神戸を迎えた。このシーズン、駒場でのJ1リーグの試合はこの1試合に限られていた。 つづきはこちら 試合はエジミウソン、高原直泰がゴールを決め、2-0で勝利。今もなお、レッズでプレーしている選手では阿部勇樹が先発フル出場。そして後に袂を分かつことになるのだが、高橋峻希、山田直輝、永田拓也、原口元気が出場し、濱田水輝がメンバー入りと、前年に高円宮杯第19回全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会を制したメンバーが多く名を連ね、未来を感じさせるゲームとなった。その後、レッズの選手たちがJ1リーグで駒場のピッチに立つのは、12年もの時間を要することになる。(2/2)

SPECIAL MOVIE

「浦和レッズ」名付け親の佐藤仁司氏が語る浦和駒場の歴史と魅力 | COME BACK HOME スペシャルムービー

MESSAGE

伊藤 敦樹
伊藤 敦樹

生年月日 : 1998年8月11日(23歳)
出身地 / 国籍 : 埼玉県さいたま市 / 日本 / HG
身長 / 体重 : 182cm / 78kg

「駒場は自分の地元、本当の地元なので、駒場に観に来てくれる人たちに自分の精いっぱいのプレーを見せたいですし、自分も納得できるプレーや自分の持ち味を出して、しっかりと勝ちたいです。

まだJ1リーグでゴールを決めていませんし、ホームでも決めていませんので、そろそろ決めたいですね。駒場での初ゴールを狙っていきたいです」MORE

鈴木 彩艶
鈴木 彩艶

生年月日 : 2002年8月21日(18歳)
出身地 / 国籍 : 埼玉県さいたま市 / 日本 / HG
身長 / 体重 : 190cm / 91kg

「駒場はレッズのジュニアチームに入る前から知っている場所でした。ジュニアのころはレディースの試合を観に行っていた思い出がありますし、普段もチームとしてではなく個人として、スタジアムの外のアスファルトのところでトレーニングしていました。

そんな場所で試合ができることにユースのころも喜びを感じていました。トップチームの選手としてこのピッチに立てることは本当に楽しみですし、駒場で勝利したいという気持ちが強いです。埼スタと比べてすぐ近くに家があるような場所に建っているので、周りの人たちを巻き込んで勝利して喜び合えるような戦いをしていきたいです」

GOODS

2021浦和駒場スタジアムTシャツ/チャコールブラック
2021浦和駒場スタジアムTシャツ/チャコールブラック

販売場所:レッドボルテージ・浦和駒場スタジアムファンショップ

2,750円(税込)
2021浦和駒場スタジアムキーホルダー
2021浦和駒場スタジアムキーホルダー

販売場所:レッドボルテージ・浦和駒場スタジアムファンショップ

990円(税込)
2021浦和駒場スタジアムバンブーマグカップ/赤・黒・白
2021浦和駒場スタジアムバンブーマグカップ/赤・白・黒

販売場所:レッドボルテージ・浦和駒場スタジアムファンショップ

1,650円(税込)

※オンラインショップでは取扱い予定はありません。