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コラム「石巻で輝いた、選手と子供たちの笑顔」

震災など、人の生死に関わる深刻な事態を前にしたとき、スポーツであるサッカーが直接的な力になることは難しい。
だが、人の心を揺さぶることができるスポーツとそこに関わる人たちが、まったく力になれないのかというと、そうではない。ときとして、大きな影響力を与えられる可能性があること、大きな助けにつながることがあることは、これまでに何度も、サッカーをはじめとするスポーツが証明してきているからだ。


10月20日、13時からベガルタ仙台とのJ1リーグ第29節を戦ったチームは、その日、埼玉県には戻らず、そのまま仙台市内に宿泊した。翌21日、「東日本大震災被災地復興支援 子供たちとのサッカー交流会」を行うためだった。
帯同した18人のメンバーやスタッフを二手に分け、石巻市と名取市で交流会を開いたのだが、私は、その石巻市の交流会を取材するため、チームに帯同させてもらった。
仙台市から50kmあまり北東の沿岸部に位置する石巻市は、宮城県の中で東日本大震災(その多くは津波)による死者が3,000人を超える最も人的な被害があった場所だ。
朝8時に仙台市内のホテルを出発した一行は、時間の都合上、ゆっくりとは見られなかったものの、交流会の前に、石巻市の現状をバスで視察した。
住宅があったとされる場所は、何もない原っぱになっていたり、市内には多くの瓦礫がいまだ山積みとなっていたりして、1年半以上がたった今も、復興とは遠い現状なのだと、あらためて感じさせられた。

学校と思われる建物の前を、バスが通った。3階建ての校舎の窓はすべてなくなっていて、壁の塗装はいたるところがはげていた。それは、津波の被害が色濃く、そのすさまじさを想像させるに十分なものだった。
その校舎の前にある校庭で、少年たちが野球の練習を行っていた。それを目にしたとき、加藤順大が思わず言葉にならないような声を上げた。バスに同乗していた私は、彼の気持ちがよく分かった。津波の被害のために、廃墟と化しているような校舎の前で、子供たちが野球を行っている。その光景は、なんとも表現しがたい思いを、こちらに呼び起こさせたからだ。
「小学校か、中学校か分からなかったですけど、一番上の階までガラスがなく、津波が来たんだろうな、と想像できました。その学校の校庭で子供たちが野球の練習をしていて、それは複雑な気持ちに正直なりました。そういう中でも生きているんだなというのを感じて」
加藤は、そのときの気持ちをそう語った。
石巻市には、東日本大震災がどういったものだったのか、それを想像させるに十分な跡が、いまだ多く残っていた。そして、そうした状況を見た上で、一行は、交流会が行われる上釜ふれあい広場へと向かったのだった。



石巻市での交流会には、石巻サッカー協会に所属する12の少年団と、サッカークラブではないスポーツクラブの約160人の子供たちが参加した。
大勢の子供たちがいる中、選手たちは、積極的にその子供たちに声を掛け、サポートするクラブスタッフもつとめて明るく、ときには厳しさも交えながら、子供たちに声を掛けていった。
時間の都合上、駆け足で行われた交流会は、決してメニューも多くのものができたわけではなかったが、プレーしているとき、本当に楽しそうな笑顔を見せる子供たちが多く、それを見守る保護者の方たちの笑顔も温かかった。

参加した親子は、こんな感想を述べていた。
「サッカーをできてうれしかったです。おもしろかったし、楽しかったです。これからは、レッズを応援したいです」(石巻市・亀山瑠杏さん・小学3年生)

「こうしたプロの選手に一緒にプレーしてもらえるという機会は、なかなかないので、子供たちには貴重な機会になりましたし、これまでにこの子はサッカーをする機会が学校の体育くらいしかなかったので、サッカーをやっている子たちの中に入って、一生懸命にボールを追う娘の姿を見たときに、こんな姿も見せるんだと思って少し感動してしまいました。
こうした取り組みをしていただけるのは、子供たちの気持ちが一歩前に進むような、前向きにしていただけるような活動だと思うので、すばらしいと思いますし、また機会を作っていただけたら本当にうれしいです」(瑠杏さんの母・真澄さん)

「今日は楽しかったです。選手はかっこ良かったし、サッカーできたことがうれしかったです。僕はサッカーをやってはいないのですが、今日やって、サッカーを好きになりました。サインをもらった柏木選手がかっこ良かったです」(宇都宮弘導君・小学5年生)

「一緒にプレーできることってないじゃないですか。本当に貴重な経験をさせていただけました。こんなに遠いところまで来ていただいて、感謝しています。こうした活動をしていただけるのは、子供たちも元気をいただけますし、プロの選手になりたいという希望や夢を持つ、前向きな考えが出てくる機会になると思うので、すごく良かったし、良い思い出になると思いました」(弘導君の母・歩さん)

子供たちを笑顔にさせる。
事前の打ち合わせで、そうしたテーマを掲げていた選手たちやスタッフたちにとって、短い時間ながらも、ある程度の手応えと充実感を得られたものになったのではないかと思う。
そして、それは、交流会に参加した人たちに対しても何かしらのものが残せたということでもあったのだろう。

継続する努力と実現を

震災から1年半以上が過ぎている。私は、仙台戦の前日、今は仙台に転勤になっている知人と食事をしたのだが、仙台市内中心部の繁華街は、夜も人通りが激しく、賑わっていた。それは東京都内の繁華街と見まごうほどで、知人からは深夜になった方が、人通りが多くなるとも聞いた。
その2日後、車で1時間と少しの距離しか離れていない石巻市で見た光景とは、明らかに異なり、復興過程の難しい現状を感じさせられた。
そんな中で今回、トップチームの選手が復興支援のために、サッカー教室を開いた。そうした企画をクラブが選手に持ちかけ、そして、それを選手がぜひに、という形で了承し、実現させた。
浦和レッズは、もともと子供たちのこころを育む活動に取り組むハートフルクラブが、被災地支援を何度も行ってきているが、トップチームが優勝争いをしているリーグ戦のこの重要な時期に、それを別にして、こうした活動に取り組んだことは本当にすばらしいことだったと思う。
子供たちと選手がボールを追いかけたことで、文字どおりの復興が進むわけではない。だが、被災地から距離が遠くなればなるほどに、震災のことが頭の中から離れていきがちな今、浦和レッズがこうした取り組みを行ったことに、意味があると思うのだ。

柏木陽介は次のように話していた。
「被災地の状況を視察して、まだ全然復興されていないという現状と、ここまで大変だったんだなということ、家がなくなるというのは本当に大変なことだと思うので、その中で俺らが何ができるかと言ったら、サッカーで伝えるしか、俺らにはできないから。そういう部分をやっていけたらと思います」


今回のサッカー交流会が、復興の直接的な力になれるわけではないが、彼の言うとおり、プロサッカークラブである浦和レッズ、そして選手たちにしか、できないこともあるのだと思う。
あとは、これを1度にするのではなく、継続することが大切だろう。
そして、それは、選手たちも望んでいたことだった。
加藤は、「ぜひ、またやりたいです。やれるかというよりも、浦和レッズとして、ハートフルもやっていますけど、選手もやるべきだし、また足を運びたいです」と言い、鈴木啓太は、「続けることが大切ですし、回数というよりも長く継続していきたいです」と話した。

今回の取材を終えたとき、自分が関わっているプロサッカークラブ、そして選手が、こうした思いを持ち、活動していることがうれしかった。こうした活動を続けていくには、常にさまざまな難しさが伴うだろう。だが、ぜひ、継続する努力をし、実現していく。普段の勝利を目指す姿を見せていく一方で、そうしたクラブでもあり続けてほしい、と思った。
(高野和也/MDP編集)

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