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平川忠亮 現役引退記者会見

28日、2018シーズンをもって現役引退を決断した平川忠亮の記者会見がクラブハウスで行われ、決意の経緯や、レッズで過ごした17年間の思いが語られた。

【質疑応答】
(引退を決めた時期と、今の心境は?)
「意識しだしたのは2年前くらいです。試合に出る機会も減ってくる中で、自分の中でもパフォーマンスが落ちてきていることは実感していました。その中で、徐々に自分の中で熱く湧いてくるものが、選手としての自分にではなく、次を考え出している自分がいました。その中でも、自分がどれだけ貢献できるかはこだわってやってきましたし、自分が出場できる試合の準備は常にしてきましたが、2年前くらいから少しずつ考え出して、今年決断に至りました」

(次節がホーム最終戦となるが、ファン・サポーターに何を伝えたいか?)
「これまでとスタイルは変わりませんし、これからもいろいろな意味で変わらずにやっていきたいと思います。まずはリーグ最終戦で勝利することを大前提として、それをサポートするために駆けつけて欲しいというのが一番の気持ちです。後は、来てくださった方へ、自分の口から今後どのようなビジョンを描いて、どのような思いでやっていくかを直接伝えていけたらと思います」

(良い思い出と、苦しかった思い出は?)
「本当に数多くのタイトルを獲ってきた中で、そのメンバーの一員としてやってこれて非常に幸せでした。その瞬間はどのタイトルも本当にうれしかったですが、やはり一番覚えているのは、2007年のACL(AFCチャンピオンズリーグ)のPK戦で5人目を務めたことです。本当に苦しい試合で、なんとかPKで勝利するのが精一杯だったなという思いもありますし、城南が非常にすばらしいチームで、苦戦したことは今でも覚えています。その中で、全員が力を出し切った中で、自分がPK戦の5人目を務めました。都築さんが1本止めてくれていたので、外してもサドンデスということで、それほどプレッシャーもない中で蹴ることができましたし、あの瞬間は自分でもあまり覚えていないくらいうれしかったです。感情が爆発した瞬間です。

苦しい時期で言えば、2011年の残留争いの中で、最後までヴァンフォーレ甲府と争っていたわけですけど、アウェイのアビスパ福岡戦だったと思いますが、そこで勝負を決めないと厳しい中で、先制されて苦しい中でひっくり返して勝ったときは、どんなタイトルを獲ったときよりも安心を強く感じました。なんとかしたかったですし、どれほどがんばってもうまく回らなくて、残留争いに陥るチームはそうした状況に陥るのだと感じました。あのときは(鈴木)啓太がいて、自分は副キャプテンもやっていましたので、色々話もして、どうすれば良くなっていくかを考えていました。そのプレッシャーからもあの試合で一つ解き放たれて、喜びや安心感が得られました」

(引退を決意した旨を家族やチームメイトに伝えた際の印象的な出来事は?)
「一番ビックリしたのは、自分の息子ですかね。選手には色々なタイミングで伝えましたけど、選手をやっている以上はどこかで誰もが終わりますし、自分も最年長でやっていて、自然の流れだと思います。みんなも色々な温かい言葉を掛けてくれました。その中で、奥さんには先に伝えていましたが、子供にどのタイミングで伝えようかと考えていました。今、小学3年生の男の子と、2年生の女の子がいますが、自分の中で子供の記憶に残るくらいまで選手でいられたらいいなと思っていましたが、今回伝えるにあたって、お兄ちゃんの方が泣いていました。勉強していたんですけど、顔を見せずに肩を震わせていて、その光景を見たときは、ちゃんと覚えているまでやることがどうだったのかなとも感じました。記憶が残らない時期に辞めていれば、昔選手だったよというくらいで上手くいったのかもしれません。ただ、自分がやってきたことを直接伝えることができて、息子もそれだけショックを受けてくれましたけど、これからはお前ががんばるんだよということは伝えました。一つの目標も叶いましたし、息子だけではなくて、子どもたちの世代の選手がいつかレッズでプレーしてくれるようになってくれればうれしいし、そういった選手に育ってくれたらいいなということは伝えました」

(引退発表後2日経過していますが、同期の選手から掛けてもらった言葉はあるか?)
「(小野)伸二にも、ツボ(坪井慶介)にも直接伝えましたけど、伸二には2年前くらいから悩んでいたことも伝えていましたし、その中で常に相談にも乗ってもらって、お互い切磋琢磨してここまでやってきました。僕が決めたことを尊重してくれましたし、続けていくことの大変さは伸二も知ってくれている中で、『お疲れ様』という言葉と、『寂しいけど、次に向けてがんばって欲しい』という温かい言葉をもらいました。ツボも同様に、電話だったので顔を見て話をすることはできませんでしたが、派手な言葉はなかったですけど、『そうか、お疲れ様』というような言葉をもらいました。ツボも同期で、一緒に加入してやってきましたから、ツボがやっている間は自分もがんばってやっていきたいと思っていました。次のステップに進むことも考えなければいけない時期に来ていたと思います。自分で決めた判断なので、後悔もないですし、しっかり報告できて良かったと思います」

(城南戦のPKで5人目に決まった経緯は?)
「本当に疲れていて、マッサージや水分補給などリカバリーする方に集中していたので、監督の話もあまり聞いていなかったです。『平川も蹴るぞ』とは言われたのを覚えていますが、センターラインに並んだときに『俺、何番?』ってみんなに聞いたら『分からない』と言われました。でも、1番から出て行って、結局5番しか空いていなくて、多分5番なんだなということで蹴らせてもらいました(笑)」

(PKは得意だったか?)
「得意ではないですかね。プロになって公式戦で蹴ったのはあれが初めてだったと思います。レッズはすばらしい選手が多いですし、PKやセットプレーを蹴る技術の高い選手はいますから、なかなか蹴るチャンスもありませんでした。それまでにPK戦といえばナビスコカップやチャンピオンシップがあったと思いますが、そこではキッカーに指名されることはありませんでしたので、あの時はオジェックさんが信頼してくれていたのか、良い思い出になりました」

(背番号『14』を付けた由縁と思いは?)
「1年目は28でしたけど、それも1年目に伸二が付けていた番号です。もちろん、小学校からの友達で、伸二がいなければサッカー選手になれていなかったと思っていますので、同級生ですけど、かなりのリスペクトがあります。その中で、伸二がいる浦和レッズに入ろうと思っていましたが、入れ違いで半年早くフェイノールトに移籍してしまいました。28が空いていて、水上さん(マネジャー)が、伸二が付けていた28が空いているけど?ということで付けさせてもらいました。1年目に何回か試合に出場させてもらって、ある程度空いてる番号であれば好きな番号を選べましたが、そのときに、伸二がフェイエノールトで付けている同じ番号の14を付けさせてもらいました。一回も変えなかったですね。変えないかという話もなかったですし、気に入ってもいたので、自分と言えば14番だと染み込むまで付けさせてもらいました」

(14番をどんな選手に継いで欲しいか?)
「全くありません。誰でも、付けてくれる選手がいるのであれば付けて欲しいですね。ここにはすばらしい選手しかいないですし、次に入ってくる選手もすばらしい選手で、未来を期待されて入ってくると思うので、どんな選手に付けてもらっても光栄ですし、全くこだわりはありません」

(浦和レッズのサポーターとはどのような存在だったか?)
「アジアを代表するサポーターと言っても過言は無いと思います。人数もそうですし、応援のレパートリー、ボリューム、色々な部分を含めて、本当に選手たちを引っ張ってくれた存在だと思います。厳しい一面もあり、選手やクラブと対立してぶつかるシーンも何回もありましたけど、お互いがレッズを愛するがゆえのことだと思いますので、そういった部分でも愛を感じていました。激励だけではなく、叱咤も聞こえていましたし、そういった声が自分を成長させてくれたと思います。まだやらなければいけない、もっとやらなきゃいけない、この試合も次の試合も勝たなければいけないと、そういったプレッシャーの中でやらせてもらえたことは、自分が17年間やってこられた一つの要因というか、背中を押してくれたと感じています」

(平川選手にとって『浦和』とは?)
「僕は静岡出身で、縁もゆかりもなかったですけど、レッズに入団してからは17年間本当に、街自体に支えてもらった印象です。どこにいってもサッカーに対して熱い人々がいましたし、本当に可愛がってくれました。浦和の街を故郷だと思っていますし、過ごしやすい生活をバックアップしていただけたことに、感謝しかありません」

(今後、浦和レッズにどうなって欲しいか?)
「いいチームに成長して欲しいですし、いかなければいけないと思っています。その中で、チームも色々な話をしてくれていますので、自分もこの17年間の経験を生かして、より良いチームに成長していけるように自分の力を注いでいきたいと思います」

(17年間現役を続けてこれた秘訣は?)
「浦和レッズは日本のビッグクラブの一つだと思いますが、ここまでやってこられたのは、すばらしい環境と、すばらしいクラブスタッフ、ファン・サポーター、みなさまの支えがあってこそだと思います。それ以上に一番感じていることは、常に競い合ってきたすばらしいライバルがいたことが僕にとって財産です。自分は下手で学ばなければいけないことがたくさんありましたけど、そういった部分もいっぱい勉強させてくれる仲間たちがいてくれました。常にレッズは代表クラスの選手が入ってくることが多かったですが、その仲間たちのおかげで、ここまで長い年月をやってこられたと思います」

(あえてこの17年間の中でやり残したことを挙げるとすれば?)
「クラブワールドカップで優勝することですね。アジアのチャンピオンに2度なれたことは非常にすばらしいと思いますが、選手としてさらに上を目指さなければいけないし、チャンスがあれば不可能なことではないと思います。ですので、一つ挙げるとすれば、クラブワールドカップで優勝できなかったことです」

(現在まで貫いてきたことは?)
「一つは、タイトルや勝利にこだわりながらも、大事なのは次の試合ということを思っていました。満足してしまうと成長していかないと思いますので、優勝したメダルや獲得したものは部屋にも飾らないようにしていますし、常に次の試合、次の大会、次のタイトルを獲るという気持ちでやってきました。後は、練習の中で自分に足りているのか足りていないのかを常に考えていました。チームとしての練習はしますが、試合に出なくなってくればプラスアルファでやらなければいけないことも出てきますし、歳を取ってきて疲労が残っていれば、(負荷を)落とすことも必要だと思います。そういった臨機応変な対応をしていく、こだわりながらも変化をし続けていかなければいけないと、歳を重ねるに連れて考えていきました」

(印象に残っている監督は?)
「非常にたくさんのすばらしい監督に恵まれて、指導していただきました。記憶に鮮明に残っているのは、オフト(ハンス・オフト)さんと、ミシャ(ペトロヴィッチ)が、自分を一番変えてくれたというか、プロのサッカー選手として成長させてくれた2人かなと思います。オフトさんに関しては、サッカーの前に、一人の人間として、プロサッカー選手としてどういった生活や振る舞いをしていかなければいけないのか、サッカー以外のところで怒られた記憶の方が多いです。本当にお父さんのような方で、ツボと一緒にトップチームに上がりましたけど、僕だけ怒られていました(笑)。ツボも同じ生活のリズムでずっといるのに、僕だけいつも怒られて、多分心配もあったのだと思います。言われているうちが華ですし、そうやって言ってくれたおかげでここまでやってこれたと思います。1年目で、オフトさんに指導していただけたことは非常にいいタイミングだったし、いい出会いでした。

ミシャとの出会いは、自分が30歳をこえて、これからどうなっていくのだろうというタイミングでした。レッズは前の年に非常に苦しみましたかから、どう変えていかなければいけないのかを悩んでいた時期でした。その中で、まったく今までにない指導の形で、なかなか攻撃の部分を指導してくださる監督はいなかったですし、30歳をこえてまた新しいサッカーに出会えて、毎日の練習が楽しかったことを今でも覚えています。考えながらプレーすることにこだわっていて、少しボーッとしていると追いつけない、本当に早いスピードで考えて動かなければならないと。そこでまたサッカーがより好きになって、楽しくなって、ここまで続けてこれました」

(最後に、今の心境は?)
「もう少し寂しいのかなとか、いろいろイメージはしていましたが、今日もこれだけの人が集まってくれましたし、引退を発表してから温かい言葉をいただいて、自分がここまでやってこられたのは、本当にみんなの支えがあったからだという思いがあるので、感謝の気持ちが一番強いです。どんな気持ちになるのか心配はありましたが、本当にみなさんのおかげで楽しい選手生活を送れました。ありがとうございました」

【浦和レッズオフィシャルメディア(URD:OM)】

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