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柏木陽介が語る―浦和に来た思い―


2010年、サンフレッチェ広島から浦和レッズに完全移籍をしてきた柏木陽介。豊富な運動量と巧みなテクニックを兼ね備えた左利きのMF。
15日(金)からスタートする宮崎トレーニングキャンプを前に、これまでのサッカー人生で培ってきたこと、今シーズンへの意気込みなどを語った。

■9日の記者会見では、移籍を「苦しい決断」と言っていたが?
「基本的には広島でずっとお世話になってきましたし、選手もスタッフも好きですし、ファンの方ももちろん好きでした。結局、移籍することはファンの皆さんからしたら、裏切る行為に見られるなっていうのはありました。ただ、自分では、広島でやるのももちろん成長できると思いますが、環境を変えてチャレンジすることが今の自分にとって成長できるんじゃないかという思いがありました。だから、愛情とか友情とかを取って残るか、自分の成長のために出るか、というところで、性格的にそこら辺が難しかったです。情に流されやすいタイプなので。
オファーをもらってからずっと悩んでました。『浦和に行こう』と思って、寝て起きたら『やっぱり広島に』とか、そんな感じでした。
相談はめっちゃしましたね。(佐藤)寿人さん含め選手のほとんどに相談しました。あとは、恩師の、ユースのときの監督のゴリさん(サンフレッチェ広島ユース 森山佳郎監督)とか小学校のときの監督とかにも。みんな、基本的には『おめでとう』、『誰もがもらえるオファーじゃないんだから、頑張ってこいよ』という反応が多かったですね。ただ、『でも、お前の性格的には、出ていかんやろ』という意見が結構ありました(笑)。
小学校の監督やユースの監督からは『残った方がいいんじゃないか』って言われました。『出ていってもいいけど、安パイなのはこっち(広島)だよ』という意味だったらしくて、そのことは俺が決断してから言われたんですけどね。広島にいることにマイナスはないよ、ということを伝えたかったみたいです。『行くなら行くで、しっかり応援するし、頑張ってほしいし、できると思うよ』と言われました。
オファーをもらってからは、レッズの試合を見て、『俺が入ったら、こういうふうにできるのにな』とか『俺ならこうするな』とか、いいところと悪いところを第三者的に見ることができました。見たのは、オファーをもらって以降の試合ですけどね」

■レッズの試合を見て、感じたところは?
「広島のペトロヴィッチ監督とやった1年目2年目と似ていました。『こういう感じだったな』と。それを進めたのが今の広島のサッカーかなと思いました。フィンケ監督がやろうとしているサッカーも自分の中では理解しているつもりです。だから、広島の監督も行くなとは言わなかったですし。もちろん、『残ってほしいという、それ以上のことはないけど、そういうサッカーの内容も含めて、出ていってもいいんじゃないか』と。
ペトロヴィッチ監督は、2006年6月に来たので、昨年が4年目でした。1年目、2年目はいいサッカーができてなくて、それで2年目にJ2に落ちて、でもJ2でもほとんどメンバー変わらないままでやって、J1に上がれたという形でした。それで、J1でもいい成績を残せるようになりました。2009年の広島のサッカーができるようになるまでは、2年半ぐらいかかりました」

■昨シーズンのレッズには、ポゼッションはできるがブロックを作って守る相手を崩せず、カウンターで失点するというパターンがあったが、広島にもそういう時期は?
「もちろん、ありました。余裕で(笑)。ほとんどやられるのはカウンターでした。J2でも、カウンターを食らうことがあって、ただJ2ではフィニッシュの部分で怖さがなかったのでやられなかったのが、J1になったときに『ちょっと怖いな』とチーム内でも話していました」

■昨年の広島は、崩しきることもできていたが、レッズでは?
「まず、FWがワントップで入ったときに、追い越す選手が少ないってことが、僕が感じていたことです。FWを追い越していく選手があと2人くらいいたら、いいと思うし、クロスに対してもあと2人くらい入っていけるようなチームになれれば、もっと点が入るのではないかと思います。前線でキープはできるんだから、そこで追い越していかないとDFを引きつけることもできないし、DFが来なければ自分がフリーになれるわけだし。そういうのは、オファーをもらってからレッズの試合を見て、結構感じてました」

■追い越していくプレーを見せる選手の1人が柏木選手自身になるのだと思うが、その運動量の秘訣は?
「昔から結構そうでしたね。小学校のときは駅伝に出たりもしましたし、御津中学校は普通の中学校でしたが結構強かったんです、そこでセンターハーフみたいな感じで、もう『全部やれ』と(笑)。もともと持久力はあったみたいですね」

■柏木選手の特長として、技術があるだけではなく『戦える』というところがあると思うが?
「ユースに入ってからです。それまではドリブルしかできなかったし、パスもできないことはなかったのですが、ワンタッチで出すことはほとんどなかったですね。それが、ユースでボランチをやるようになってから、戦うって意識は結構強くなりました。勝ちたいって気持ちも結構強かったです。
ちょうど広島のユースの立ち上げのときで、ゴリさんが監督で1年生からそうでした。小学校のときの監督に技術をつけてもらって、ゴリさんには気持ちの部分とかを教えてもらいました。今、俺がこういうプレースタイルなのはゴリさんのおかげかなと。技術を教えてくれた小学校の監督と、走りながら戦うということを教えてくれたゴリさん、自分を変えてくれた恩師2人、ですね。そして、ペトロヴィッチ監督がそれをさらに生かしてくれた、ペトロヴィッチ監督に生かされた、という感じです。そして、それを次は違うところで生かしていきたいな、というのもありました。
だから、レッズは昨年からサッカーを変えようとしていて、それはやっぱり絶対簡単にはいかないものだと思うし、そういう中で、自分がやっていたサッカーを少しでも伝える。伝えるって言い方はおかしいのかもしれないですが、そういう気持ちでやれればと思っています」

■これまでのサッカー人生で挫折などを感じた経験は?
「中学校が、普通の中学校で、全国レベルのチームの強さも分からないし、自分たちの周りだけでやっていたので、自分がダントツにうまいと思っていました。その中で、広島のユースに入って、まず挫折、ですよね。みんな、うますぎて。『俺ってめっちゃ下手やん』って思ったくらいです。ただ、そこできちんと3年間、戦えたことがよかったです。出会えた監督や仲間、寮での生活もそうですが、誰にも文句を言うことなく、一緒に戦えたのが1回目です」

■それ以外にもある?
「2回目は、プロになって、今のペトロヴィッチ監督になるまで、まったく試合に出られなかったんです。自分としてはいいプレーもできていると思っていて、『ホンマ、ありえへんし』って一時は監督のせいにしたりとか。そんな中で沢田(謙太郎)コーチに、『何でなんスか』って言ったら、『お前が一番、下手だっていうことだよ』って言われて。『もう下に行くことはないんだから、上を目指して頑張ればいい』って言われて。そこからまた頑張って、監督が代わるときにチャンスだなって思って、必死で頑張って、試合に出られるようになったということがありました。
それと、北京オリンピック代表に落ちたときです。ケガもありましたが、それも言い訳にならないし、自己管理の部分だったので。その中で、ケガをしてから、メンタルの部分がすごく強くなったと思います」

■見方によってはサッカーの世界でのエリートにも見えるが?
「中学校までは無名でやってきているわけですし、そんなにエリートでもないです。高校のときからずっと(年代別)代表に選んでもらっていますが、いろいろ大変なところもありました」

■いつごろから?
「僕の家は母子家庭で育ったんです。僕がユースのときは、母はずっと一人で、そのときは兄が高校生でその後も大学に行って、妹も中学生で、母は大変だったと思います。僕の寮費もかかりましたし。その中でも、母が頑張ってくれたというか、僕の夢をずっと応援してくれていたのはすごく大きかったなと思います。恩返しもしないといけないですね。
これまでサッカーを続けることができたのは母のおかげでもあります。それと、僕が負けず嫌いだったというのもあると思います。
ネガティブなところもありましたが、落ち込むのはその日だけっていうのが多くて、一晩寝たら治るっていう感じです。しかも他人のせいでネガティブになることは少なかったですね。誰かが悪いから、というのではなく、例えば試合中も自分が悪くてネガティブになっていた感じでした。それも最近、少なくなって、やっと自信がついてきたので、移籍しようということになりました」

■広島時代から「魅せるプレー」にこだわっているが、より具体的には?
「いろいろありますが、ワンタッチですごいいいパスを出すとか、ターンでかわす巧さとかトラップでかわす巧さ、あとはスルーパスもそうだし、シュートでもいいシュートとか、言葉で言うのは難しいです(笑)」

■昨年のレッズとの対戦でも、そういったプレーを見せていたのでは?
「レッズ戦は調子良かったのもあります(笑)。でも、スルーパスも出せたし、1点目のアシストもよかったと思います。あとは、後半にトラップして1回空振りしたシュート(第17節後半9分)も、自分の中ではあのトラップは完璧やったなというか。相手を全員ダマしたなというトラップでした」

■埼玉スタジアムでのレッズ戦のイメージは?
「広島のときは、怖いけど(笑)、この中でやれたらいいなというのは思っていました。味方になっても、多少厳しい言葉もあるとは思いますが、それも愛だと思うので。ファンからもプレッシャーを与えられてるっていうところでやれるというのは、また違うかなと思っていました。
正直なところ、昔は浦和ってチームがあまり好きではなかった。でも、こういう大勢のファン・サポーターの中でプレーしたいなっていうのはあったし、今やろうとしているサッカー自体も好きなんで。だから、フィンケ監督になってからですかね、興味を持ったのは。それまでは、一人一人がうまくて、強くて、力強いチームという感じだった。でも、いいサッカーしてるかって言ったら、僕から見て、そんなにめっちゃ崩していったなっていうのはあまりなかったので、だからあまり好きではなかったんですけど、今はやろうとしているサッカーが広島と似てるし、自分に合うなと思ったので。…こんなぶっちゃけてしまって、怒られるかもしれないですけど(苦笑)」

■移籍する前から知り合いだったレッズの選手は?
「ウメ、ハジメ君、阿部さんとか啓太さんとかは代表で一緒、あと直輝もJリーグアウォーズで話して、あとは…堤や。これぐらいですね。移籍が決まってからはすぐにウメとかハジメ君から電話かかってきましたし、堤も一緒に食事に行こうと誘ってくれました」

■加入会見では、「明るさを浦和に持ち込みたい」という言葉もあったが?
「もう、やる気満々ですよ(笑)。広島でやっていた『劇場』は、浦和の人がどう思うか分からないので、やるかどうか分からないですが、何か団結してやれることが一つでもあったらなと思います。せっかく、あれだけの人が来てくれていますから、みんなで何かやりたいと思っています」

■埼玉スタジアムだと、一ヵ所だけでパフォーマンスをするというわけにもいかないのでは?
「そうなんですよね。まあ、要相談ということで(笑)。あとは、一緒にやってくれる選手を探さないといけないので。頑張ります!」(了)
【浦和レッズオフィシャルメディア(URD:OM)】

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